こころ(ゼーレ)1はこちら
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ギリシャでは、
人間は最初のうちは、「火」をもっていなかった。
主人ゼウスが人間に火を与えるのを拒んだからである。
火のない人間の生活に同情して、
プロメテウスは、天上の火を盗み出す工夫をこらす。
彼は大茴香(おおういきょう)のうつろな茎をもって天に登り、
ゼウスの宮の火処から火を盗んでくる。
彼が火を盗んだのは、
火の神ヘーパイストスの仕事場からとか、
太陽神の燃える車輪に灯心を押しつけて火を移し、
隠し持って地上に降りてきたとか、言われている。
ともかく、
このようにして、彼は神から火を盗んできて、
人間に恩恵をほどこした。
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ゼウスは、
人間が火を得て喜んでいるが、その償いとして禍を与えようと考えた。
そこで、
ヘーパイストスに命令して、粘土をこねて人形をつくり、女神に似せた姿にし、
アテーナ―やアプロディーテが女としての魅力をいろいろとさずけ、
ヘルメースは、恥知らずな心と、ずるっこい気質をそれに吹きこんだ。
ゼウスはこれにパンドーラという名をつけ、
プロメーテウスの弟、エピメーテウスに贈った。
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パンドーラは、
神々からの様々な贈物を一杯いれた手筐を土産にもってきていた。
それは固く封がしてあって開けて見ることを許されていなかったが、
パンドーラが開けてしまった。
すると中から、
もやもやと怪しいものが立ち上がり、四方に散らばっていった。
それはあらゆる災や害悪であった。
人類はそれまでそのような災難を知らなかったが、そのとき以来、
多くの悪疫や災禍が人間を襲うようになった。
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<物語と日本人の心>コレクションⅢ
河合隼雄 河合俊雄[編]「神話と日本人の心」岩波現代文庫 P74-76
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上記の神話からでも、
人称的な意識によって、区別による幻想から生じる禍によって、
知恵の実を食べたアダムとイヴにより生じたイバラとアザミのような、
苦しみや悲劇がもたらされてしまったのではないでしょうか。
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別の物語では、
ゼウスはプロメテウスに向かって次のように言ったとされている。
「おまえは火を盗み出してわしを欺いたと言って喜んでいるが、
それはおまえ自身にも将来の人間どもにとっても禍いとなるのだ。
彼らは火と引きかえにわしから禍いを受けとることになるのだから。
自分の不幸を心から大切にし、みなで喜ぶがよい」。
成田善弘著「贈り物の心理学」名古屋大学 出版会 p6-7
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知恵の実を食べたアダムとイブも然り、
火を盗むプロメテウスも然りですが、
神々は、全体性であるこころ(ゼーレ)を私のものとして、
意識すること、区別することを好まないのではないでしょうか。
また、この意識(区別)をしない陰と陽であるこころ(ゼーレ)、
道(タオ)は、
内界の普遍性、精神性を感受する子供の、幼児の状態、感覚であると、
ユングさん、池田晶子さんは述べています。
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道(タオ)と一つである状態とは
幼児の精神状態と似ている。
周知のようにこの心理的な構えは
キリスト教の神の国に入るための条件でもある。
神の国とは根本的には
―いかに合理的に解釈されようと―
救いの働きをもたらす
中心的非合理的存在・イメージ・シンボルである。
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C.G.ユング 「タイプ論」林 道義訳 みすず書房 P233
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子供は、生まれて育ち、教えられてゆく過程のどの時点で、
それ(真実)を忘れるのだろうか。
自分は真実を知っているというあの内的な感覚である。
おそらく、
外界を摂受し、外界に適合しようとするほど、
内界を忘れ、内界の感じ方を忘れる。
決して両立しえないことではないはずなのだが、
両立のさせ方を教えられる人がいない。
それが現状なのだろう。
受験教育も学歴偏重も、その思想は詮じつめれば、
人間の幸福は外界にあるという大人の思い込みだからである。
池田晶子「あたりまえなことばかり」p16
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神の考える天上世界、天国は、
知恵の実を食べない、火を盗まない、
つまり「意識」をしないところに、
存在しているのではないでしょうか。
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聖書における「禁断の木の実」の物語、
およびこのプロメーテウスとパンドーラの物語を見ると、
人間が「意識」を獲得する、ということがどれほど大変なことであるか、
よくわかるのである。
神は、言うなれば人間が「意識」することを好まないのである。
意識する者は必ず叛逆する、
あるいは、叛逆を通じて意識化が行われる、というところがある。
神の考える「天国」は、意識をしない幸福がある。
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<物語と日本人の心>コレクションⅢ
河合隼雄 河合俊雄[編]「神話と日本人の心」岩波現代文庫 P76-77
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意識をしない、区別をしない、人称を伴わない、
そのもたらされる無意識的な、非人称の視点は誰のものか、
誰のものでもないからこそ誰のものでもある
その普遍的な視点をまず何よりも愛し、
ともにその視点を内界に持つ隣人を愛すること、
それが大切なのではないでしょうか。
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[尊師(仏陀)いわく、―]
「『これは、わたしのものではない』と人々が語るところの物、
また『それらはわれではない』と語る人々、―
このように知れ、悪しき者よ。
そなたは、わが行く道を見ないであろう。」
ブッダ 「悪魔との対話」 サンユッタ・ニカーヤⅡ 中村 元訳 岩波文庫 p54
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こころ(ゼーレ)の中に人間が生まれ出で、
未だ言語(ロゴス)による秩序化、
意識(区別)をしない生まれたばかりの幼児の精神状態が
神の国に入るための条件であるとユングさんは述べていますが、
同様に、
神秘家のスウェーデンボルグさんも、
新エルサレムとその教説の「新生」の章にて、
神の国に入るための条件は何よりもまず神を愛し、
隣人を愛する霊的生命の姿勢を持つことであり、
その姿勢へと至るためには、知恵の実を食べたアダムとイブのような、
おのれ(自愛)と世間(自智)を愛して生まれてきた状態を
絶たなければならないと、記述しています。
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新生p162
百七十三
霊的生命を受けざるもの、
即ち主によりて新たに生れざるものは、
天界に入るを得ず。
そは、主、「約翰伝」において教え給う所、
「誠に、実に、爾に告げん、人もし新たに生れずば、
神の国を見ること能わじ」(第三章、三)。
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百七十四
人は両親によりて自然的生命を得たれども、
霊的生命には未だ生れ出でざるなり。
霊的生命とは、何よりもまず神を愛し、
おのれの如く隣人を愛するに在り、
また主が聖言に教え給える
信仰の聖誡に従いて生活するに在り。
而して自然的生命とは、
隣人よりも、否、神そのものよりも、
おのれ(自愛)と世間(自智)とを愛するを云う。
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百七十五 p163
人は両親によりて、
自己及び世間の愛に属する諸悪の中に生れたり。
すべて慣習によりて
恰もその本性に属する如くなりたる諸悪は、
子孫に遺伝す、
故に悪の起りは、代代を逐いて、父母より、
祖父母に、それより前々の祖先に存するを知るべし。
是の故に、
悪は世を経るに従いて流伝の区域愈〻広く、
遂に人間の生命そのものを挙げて、
すべて悪ならざるはなきに至れり。
此不断の流伝は、
主よりする仁(意志)と信(智性)との生涯によりてのみ、
絶つを得べく、転ずるを得べし。
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百七十六
人はその遺伝より得たる所に向いて、
絶えず傾き、またこれに還らんとす。
その源よりして、彼はこの特殊の悪を自ら決定し、
而しておのれよりも亦自余の諸悪を之に添加す。
此の如き悪は、
すべて霊的生命に反せり、
而して之を亡ぼさんとするものなり、
故に人は、主よりして、新しき生命、
即ち霊的生命を受け入るるにあらざれば、
故にまた、母胎に入りて、新たに生れ出で、
新たに教育せらるるにあらざれば、
即ち新たに造らるるにあらざれば、
彼の運命は神罰を受くるより外なきなり。
何となれば、
彼は地獄に在るものの如く、その思惟する所、
意志する所、自己と世間との外を出でざればなり。
鈴木大拙「スエデンボルグ」講談社文芸文庫
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「彼の運命は神罰を受くるより外なきなり」とは、
おそらく己れの至らないところ、未熟なところを
この現世において鏡の如く映し出される状態であると考えます。
それゆえ、
己れの行いに向き合えていない、意識化されていないカルマは、
神や自然、運命の裁きにより不可避的に眼前に現れて、
内省の光によって照らされることを欲しているのではないでしょうか。
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「あなたが自らのしていることを知っているなら、あなたは祝福される。
しかし自らのしていることを知らないなら呪われ、律法を犯す者となる。」
意識していないことは、自然や運命という裁き手の前では、
けっして言い訳にはならない。逆にそのことには厳しい罰が下される。
それゆえ(現世における小我の映し出しのような)無意識的な性質はすべて、
意識に対してどんなに抵抗していても、意識の光に憧れるのである。…
C.G.ユング「ヨブへの答え」林 道義訳 p142
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また、
知恵の実を食べたアダムとイブが人類にもたらした原罪は、
子孫に遺伝し、不断の流転として世に広まり、
それを主による仁と信、意志と智性の生涯により絶つことができる、
という記述は、霊能者の月夜見さんが著述している、
私のもの、として意識(区別)したことにより
「神の隠れた知恵」を感づかせてくれる本能、霊的感性の喪失、
「高次の自分」の喪失故に、何度も物理次元に転生する、
という内容と紐づいているのではないでしょうか。
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人間が感じる欲望は、満たすものではなく、
不安を埋めるためのものだから際限がありません。
なぜ際限がないのかというと、
人間の感じている不安が
霊的な感性を失ったことによるものだからです。
人間が喪失したものは「高次の自分」だから、
欲望を追求しても底がなく、
満たされることはありません。
欲望は他人や他の生物をしばしば傷つけます。
生前は不安にかられて
"仕方なく"欲望にしたがっていただけなのに、
死後あの世に帰って霊的感性を取り戻した途端、
妄想に踊らされていたことに気がついて、反省し、
何度も物理次元に生まれ変わって、
人生に挑戦することになります。
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月夜見著 「終わりなき魂を生きる」p98
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おのれと世間を愛する姿勢、
その遺伝より得たる所、その生物的な欲求を超えて、
我が有としない霊的生命としての姿勢を生きることは、
修行僧の如く、厳しいものであります。
心理学者のフロイトとアドラーは、
人間の欲望を生物的欲求と権力への意志として注目していますが、
それもおのれと世間の愛、自愛と自智であり、
世の争い、イバラ(偽)とアザミ(悪)の契機となるのではないでしょうか。
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エロス(自愛)と権力(自智)とは、人間の欲望(原罪)の二大対象とも言える。
フロイトはエロスに注目したが、
アドラーは「権力への意志」を人間の最も根本的なことと考えた。
彼によると、
エロスも結局は、権力を得るための道具として用いられることになる。
<物語と日本人の心>コレクション Ⅱ 物語を生きる 今は昔、昔は今 河合隼雄 P237
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徹底的に自愛と自智とを払拭し、
より純化された混じり気のない意志と智性、
または陽と陰、鬼(クウエイ)と神(シエン)、
人称的な地上の男性(自智)と女性(自愛)の対立物の合一により
生じる自然的生命を超えた、
非人称的な天上の智性と意志の、対立物の合一により生まれる霊的生命、
それがキリスト教での三位一体であり、
ユングさんが生涯没頭して取り組んだ錬金術、神秘的な結合であると、
ブログの著者は考えます。
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百二十三 p280
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神との和合は永遠の生命にして救済することを
誰か見得せざるべきか。
人は創造の始めよりして神の形像にして
面影あることを信じ(創世記、第一章、二六-二七)、
また神の形像及び
面影とは何のことなるかを知れるものは、
何人も之を見得せざるはなし、
健全なる理性を有する人にして、
その理に従い、僻見を離れて思惟するときは、
誰か三体の神あることを信ぜんや、
而して
また此三体の神に同等の実性あること、
実在としての神性、
即ち神の真実性は分割し得べきことを信ぜんや。
一体の神に三位あることは、
人間及び天人に、精神あり、身体あり、
而してこれより出づる生命あるが如くにして、
思惟し得べく、理会し得べきことなり。
而して
此三位一体は只主のみに存するものなるが故に、
知るべし、
和合は主との和合ならざるべからざることを。
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鈴木大拙全集 第二十四巻
スエデンボルグ「神慮論」鈴木大拙訳
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二百九十七 p192
主に三位あること、
即ち、神性そのもの、
神性的人性、及び分出の神性あることは、
天道の密意なり、
而してこは聖きエルサレム(教会)におるべき人々のためなり。
鈴木大拙「スエデンボルグ」講談社文芸文庫
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二百九十 p189
一個の人格に三位あることを知らんとならば、
父主に在り、聖霊彼より出で来ると思うべし。
このときには主に三位あり、
一には神性そのもの、これを父と云う、
二には神性の人性、是れ子なり、
三には分出の神性、是れ聖霊なり。
鈴木大拙「スエデンボルグ」講談社文芸文庫
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神の第一の位格である「生命」「神性」「父」、
神の第二の位格である「身体」「神性的人性」「子」、
神の第三の位格である「精神」「分出の神性」「聖霊」。
三位一体としての神との和合(対立物の合一)、
これが、神人合一、完成された姿なのではないでしょうか。
ところが、繰り返しになりますが、
これは、
上位三つの位格である神のイメージの中に人間が存在しているのであって、
人間の中に神のイメージが存在しているのではありません。
自愛と自智による原罪から脱しえない人間のままでは、
サタンの計略と、影による葛藤が生じると、ユングさんは述べています。
こころ(ゼーレ)3へつづく
