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[ところが]神の第三の位格・聖霊・

人間の中に内在するということによって、

多くの人間のキリスト化が生じ、

次いでこの多くの人間が

混じり気のない完全な神人であるのかどうか

という問題が持ち上がる。

 

こうした変化によって、

しかし、

原罪から解放されていない普通の人間たちが

たちまち自我インフレに陥ることは避けられない

ということをまったく無視するにしても、

堪えがたい葛藤が生ずることであろう。

 

C.G.ユング「ヨブへの答え」林 道義訳 p156

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(繰り返しになりますが)

三位一体の、神の第三の位格である「聖霊」は、

人間の中に聖霊が内在しているのではなく、

聖霊の中に人間が内在しているのであります。

 

このもたらされる「聖霊(智性)」を含め、

第二の位格である「子(意志)」とともに、

己れに有するものとして、

この二つを知恵の実を食べたアダムとイブのような、

原罪から解放されていない人間のままでは、

それこそ

爾曹神の如くなりて、悪を知るに至る

と囁く蛇の言葉によって、

「私こそは崇高で偉大な存在である」

と自らを誇り他人を侮る「自我インフレ」が

生ずる危険があるのではないでしょうか。

 

人称を超えた普遍的な光から闇までをも含めた自己との対決に

さらされている宗教家や心理療法家は

この自我肥大、自我インフレーションに陥る危険性があると

ユングさん含めて、河合隼雄さんは述べています。

 

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自我が自己の偉大さにあてられて、同一化の現象を起こす

すなわち、

自我肥大(ego inflation)が生じることもある。

 

これは、つねに自己との対決にさらされる職業である

心理療法家や宗教家などの陥りやすい点であって、

最も謙虚であるべき宗教家や心理療法家が、

鼻持ちならなぬ高慢さをさらけ出すのも、この点である。

 

意識的には謙虚さを売りものにして、

それが無意識的な傲慢さによって裏づけられていることに

気がつかないタイプのひともいる。…

 

ユング心理学入門 河合隼雄 河合俊雄[編]

<心理療法>コレクションⅠ 岩波現代文庫 p254

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上述のような状態を考慮せずとも、

生きられていないもう一人の自分、

堪え難く、容認し難い影との葛藤が生ずると

ユングさんは述べています。

 

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こうした場合には、パウロの場合を、

つまり彼の意識の分裂を思い起こしてみるのが賢明であろう。

 

彼は一方では

自らを神から直接に召命を受け

啓示を与えられた使途であると感じているが、

他方では

「肉の棘」と彼を悩ますサタンの使いから

逃れることのできない罪人であるとも感じている。

 

すなわち啓示を受けた人間でさえも

依然としてもとのままの人間であり、彼に

ーその姿はどれほどの広がりをもつのか見当もつかず、

彼をあらゆる方面から包み込んでおり、

地の底のように深く天のように広い―の前に立てば、

ちっぽけな自我以上のものではないのである。

 

C.G.ユング「ヨブへの答え」林 道義訳 p156

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原罪により生ずる影との葛藤、そしてサタンとの対決、

その地の底のような地獄の普遍性から、

天のように広い天界の普遍性、全体性の前に、

立ちすくんでしまったのではないでしょうか…

 

知恵の実を食べたこと、私のもの、

として意識(区別)したことによる原罪の代償を克服すること、

それを日常生活の浮き沈みの中で実践することは、

計り知れない程の困難さが要求される印象です。

 

ユングさんはこの個性化の過程である自己実現、

おそらく原罪を脱し自愛と自智を超えた

非人称的な意志(闇)と智性(光)の対立物の合一として

産み出される霊的生命の姿勢へと至る過程は、

高くつくものだと言ったそうですが、

これは相当に毎日を自覚的に生きる姿勢が要求されます。

 

人生の道半ばにて、

原罪に屈することがあるかもしれません。

 

しかし(前回ブログでも紹介しましたが)、

は何人をも誘惑し給わず」、

神は原罪を背負い楽園から追放されたままでいて欲しい、

とは願ってはいないのではないでしょうか。

 

「自分とは何か」と問う精神は、

必然的に、とどまることなく、その問いの先に秘められたものへと

導かれざるを得ないのではないでしょうか。

 

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すなわちわれわれはその(個性化の)過程の犠牲となって、

運命によって不可避的に目標へと引きずられていくことになる。

 

もしわれわれが胸をはって目標に到達することができるとすれば、

それはわれわれが時宜にかなった努力忍耐によって

運命の道に現われる《神々》を理解するときだけである

 

今や鍵を握っているのは、ひとえに人間が、

堕天使からこっそり渡された超人的な力(知恵の実)

対抗できるほどの、高い道徳的段階に・すなわち高い意識水準に・

まで昇ることができるかどうかである

 

しかし

彼は自分自身の性質についてさらによく知るようにならなければ、

自力で先に進むことはできない

 

C.G.ユング「ヨブへの答え」林 道義訳 p142

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「死すべき自分とは何か」翻って「不死なるものとは」と問い、

その先に現われるものは、それこそパウロが心の目の前に見た

地獄の様に破壊的な深淵から天国の様に創造的な広大さに

包含された自分が存在しているのではないでしょうか。

 

一方の影の普遍性から表現された言葉を、

ブログの著者自身は戒めとして記憶し、

日々を生活しています。

 

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(「懲役十三年」より)

4.今まで生きてきた中で、

「敵」とはほぼ当たり前の存在のように思える。

 

良い敵、悪い敵、愉快な敵、不愉快な敵、

破滅させられそうになった敵。

 

しかし最近、このような敵はどれもとるに足りぬ、

ちっぽけな存在であるのことに気づいた。

 

そして一つの「答え」が俺の脳裏を駆けめぐった。

 

「人生において、最大の敵とは、自分自身なのである。」

 

5.魔物(自分)と戦う者は、

その過程で自分自身も魔物になることがないよう、

気をつけねばならない。

 

深淵を覗きこむとき、

その深淵もこちらを見つめているのである。

「絶歌」神戸連続児童殺傷事件 元少年A p73

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「彼」、もしくは彼に憑いた「魔物」は、

おそらく、数千年の年古りたる魔物であろう。

 

「自分」を見出すために、

文字通り地獄の闘いを続けてきたのでもあろう。

 

池田晶子「魂を考える」p118(少年Aとは何者か)

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相容れない、容認し難いもう一方の普遍的な影を、

もたらされる愛と智慧によって対決しつつ、

三位一体の象徴として人生を生き抜けるかが、

試されています。

 

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今や人間が鍵を握っている

すなわち巨大な(影の)破壊力が彼の手に委ねられているが、

問題は彼がその力を使いたいという意志抵抗できるかどうか

その意志知恵の精神をもって制御できるかどうかである

 

C.G.ユング「ヨブへの答え」林 道義訳 p141

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神の考える「意識(区別)」をしない幸福、

天上世界の実現を真剣に叶えるためには、

相当な覚悟を要求されるものであると、

私は考えます。


 

地上の人称的な自愛と自智を超えていくことによる影との葛藤、

天上の非人称的な意志と智性へと

より純化されていくことにより生ずるサタンとの対決、

意識と無意識のせめぎ合いの生涯を経て、

原罪を脱し誘惑を退けた晩年のユングさんは、

 

対立物としての神(智性)と人(意志)、聖霊(精神)と子(身体)、

それが神のイメージである父(生命)それ自身に含まれたものとして、

すなわち、

非合理的なシンボルであるこころ(ゼーレ)、三位一体として、

原父であるアダム、又は受肉したロゴス、イエス・キリストとして、

つまり、

神話として形づくられたと、私は考えます。

 

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象徴(非合理的なシンボル)はそれ自身の性質によって、

対立するものを統一することができるので、

もはや分岐や衝突は存在せず、

お互いに補いあって、生命意味深い形態を与える

 

このことが一度経験されると、

自然神あるいは創造神のイメージの中の両価性が

困難をもたらすことがなくなってしまう

 

むしろ逆に、

神の受肉の神話ーキリスト教のメッセージの本質ーを、

人間(子)の対立物(聖霊)に対する

創造的な対決として理解することができ、

対立物を自己すなわち自分の人格の

全体性の中(父)統合してゆくこととして理解できる

 

創造神のイメージの中避けがたい内的な矛盾は、

自己の統合性と全体性の中に、

錬金術師のいう対立物の結合

あるいは

神秘的な統合として、調和させることができる

 

自己の体験をもった上では、

調和させるものは、もはや今までのように、

対立するものとしての「神(聖霊)」と「人(子)」とではなく、

これら対立するものが

神のイメージそれ自身(父)の中に含まれたものとなる

 

これが神性な礼拝

に対して人間の捧げうる礼拝の意味であり、

闇(子)から光(聖霊)が生じ、

造物主(父)はその創造(子)を意識化し、

人間(子)自分自身(聖霊)を意識化することになる

 

これが人間の目標、あるいはひとつの目標である

 

これは創造の図式の中(第一の位格「父」)に

人間(第二の位格「子」)を意味深く組み入れ

同様に、その上に意味(第三の位格「聖霊」)を与える

 

これ(三位一体)が長年の間に

私の心の中に徐々に形づくられていった、

ひとつの説明を与える神話である

 

これは私が認め尊重する目標であり、

従って、私に満足を与えてくれるものである

 

「ユング自伝 2 ―思い出・夢・思想ー」 

ヤッフェ編 河合隼雄・藤縄 昭・出井淑子訳 みすず書房 p188

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そしてこの三位一体、

主との和合によりもたらされる愛が、

スウェーデンボルグさんの記述する靈的自由、

永遠の生命なのではないでしょうか。

 

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「靈的自由」は、永遠の生命を愛するよりしてあり

諸悪を罪と看做(みな)すが故に之を意志せず

而して同時に主に向うものにあらざれば、

何人も此愛とその歓喜とに至るを得ず。

 

人あり、これを行ずれば、直ちに此自由を得べし

何となれば(なぜなら)、

何人も、その内奥

即ち高級の自由(是れやがて彼が内奥即ち高級の愛)

よりするにあらざれば、

罪なるが故にとて、悪を意志せず

従いて実行せずと云うことを得ざるなり。

 

始めには此自由が自由の如くに見えず、

されどその実は然り、後に至りてその然るを見得るべし、

そのとき、彼は理性に従い、

自由によりて、且つ眞(真)なるものを、

思惟し、意志し、言説し、行動するものとす

 

自然的自由減退して自屈するに従い、此自由は増進す

而して自ら理性的自由和合して浄化すべし

 

何人にても、

永遠の生命ありと思い思惟するを喜び

此世における人生の歓楽と慶福は、これ

永遠の生命よりする無窮の歓楽と慶福とに比すれば、

影の飛び行くに過ぎずと思惟するを喜ぶことあらば、

此自由に至り得べからん

 

而してこは人の好みに従いて思惟し得る所とす

何となれば、

彼は理性(智性)自主の権能(意志)とを享有し、

また、此二つの力の由りて来る所

即ちは、絶えず此力を与へ給えばなり

 

鈴木大拙全集 第二十四巻 神慮論 七十三 p238

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そしてこのもたらされる永遠の生命を愛し、

思惟して喜ぶ、歓喜する状態が、

エデンの楽園である天界の智慧なのではないでしょうか。

 

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三百四十七

 

天界の智慧とは真を愛するより起る内的智慧なり

而して此愛世間にて光栄を求めんがためならず

天界光栄のためならず

真そのものを愛するが為めにして

此真によりて、深く内に感動し、歓喜の情ある、

之を天界の智慧と云う

 

真そのものによりて、

その心を動かし、歓喜の情あるものは、

また天界の光明によりて、

その心を動かし、歓喜の情あるものなり

 

天界の光明によりて、

その心を動かし、歓喜の情あるものは

これ、神真、否、自らによりて

その心を動かし、歓喜の情あるものなり

何となれば(なぜなら)

天界の光明神真なり、

而して神真は天界における主なればなり

 

此光明の入り来る処は只心の内分に限れり

そは心の内分

之を受けんがため作られたるものなればなり、

而して

此光明の入り来るとき、

其内分は之がために動かされ

此に歓喜の情を生ぜしむ

何となれば、天界より此に流入して

之が摂受する所となるものは、その何たるを問わず、

皆其中に歓喜悦楽の情を惹き起すに

足るものあらずと云うことなければなり

 

に対する至純の情動はこれより来る

而して

此情動は即ち真の為め真を欲する情動なり

此情動におるもの即ち此愛におるもの

これ天界の智慧におるものにして

大空の光輝の如く、天界にありて輝くべし

 

彼等がかく光明を有するは

神真は至る処に光明を放てばなり

天の大空とは

相応によりて内的智性を示せり

而して此智性は

天人及び人間の有する所にして天界の光明中にあり

 

スエデンボルグ著「天界と地獄」鈴木大拙訳

講談社文庫 p265  

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これら言語(ロゴス)によって語られた内容、

永遠に仮託された現在、

もしくは

今この瞬間の未来である普遍化された物語、

神話を私は生きてゆきます。

 

この物語を信じて人生を生き抜いたならば、

ソクラテスの言うように、

<忘却(レーテー)の河>をつつがなく渡り、

不死なる魂は救われることなるでしょう。

 

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(ソクラテス)

このようにして、グラウコンよ、

物語は救われたのであり、滅びはしなかったのだ

 

もしわれわれがこの物語を信じるならば、

われわれを救うことになるだろう

 

そしてわれわれは、<忘却の河>つつがなく渡って

魂を汚さずにすむことだろう

 

しかしまた、

もしわれわれが、ぼくの言うところに従って、

魂は不死なるものであり、ありとあらゆるをもをも

堪えうるものであること信じるならば、

われわれはつねに向上の道をはずれることなく、

あらゆる努力をつくして

正義と思慮とにいそしむようになるだろう

 

そうすることによって、…

われわれは自分自身とも神々とも、

親しい友であることができるだろう。…」

 

プラトン著「国家(下)」藤澤令夫訳 p417-418

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最後まで読んでいただき、

ありがとうございました。