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創世記 第一章

 

1.はじめにとを創造された

 

2.地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、

   神の霊が水のおもてをおおっていた。

 

3.神は「あれ」と言われた。するとがあった

 

4.神はその光を見て、良しとされた

   神はその光とやみとを分けられた

 

5.神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた

   夕となり、また朝となった。第一日である。

 

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神による天と地との創造、「光あれ」と、

その「言語(ロゴス)」によって語られるはじまりにより

天と地、光と闇、昼と夜などが創造されますが、

このように

秩序化して二分することは、区別することのはじまりは、

意識することのはじまりなのではないでしょうか。

 

外界の事象に対して、原因と結果など、

物事を切り分けて捉えることは、

言うまでもないことですが、今の世の中の発展の基礎であります。

 

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人間の意識のはじまりは、区別するというところにある。…

天と地、光と闇、などの区別をすることが意識のはじまりである。

その上で、

人間の意識構造はだんだんと分化発展し今日にまで及んでいるが、

そのときにベースになっているのは二分法である。

 

あらゆる現象に対して、いろいろと二分法を試み、

その組合せによって体系化してゆく。

 

それがうまく矛盾なくできあがると、

その体系によって現象を理解し、判断し、その現象を支配できる。

 

<物語と日本人の心>コレクションⅢ

河合隼雄 河合俊雄[編]「神話と日本人の心」岩波現代文庫 P58

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上述のような二項対立の点から見ると、

(昨今はジェンダー問題などがありますが)男性、女性の異性も挙げられます。

 

対立的な男女の関係を「陰」と「陽」に分ける陰陽道、道教は、

対立的な二者を合一する、結合する非合理的な象徴、シンボルであると、

スイスの心理学者、C.G.ユングさんは著書「タイプ論」の中で述べています。

 

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道教の観念によれば、道(タオ)

根本的な二項対立である《陽》と《陰》に分かれる。

 

とは熱・光・男性性である。

とは冷・闇・女性性である。

 

また陽はであり、陰はである

 

陽の力から《神(シエン)

・人間のこころ(ゼーレ)のうちの天上的な部分・が生じ、

陰の力からは《鬼(クウエイ)

こころ(ゼーレ)のうちの地上的な部分・が生じる

 

したがって

人間は小宇宙として二項対立の結合者でもある

 

天・人間・地

宇宙の三大要素《三才(サンツアイ)》をなしている

それゆえ宇宙的対立

自らの内で結合している小宇宙としての人間とは、

心理的な対立結合する非合理的なシンボルにほかならない。

 

人間についてのこの原イメージが、

シンボルを「生きている形」と名づけたときの

シラーにも働いていたことは明らかである。

 

人間のこころ(ゼーレ)

神(シエン)あるいは魂(フン)の部分と

鬼(クウエイ)あるいは魄(ポー)の部分とに

二分することは偉大な心理学的真理である

 

C.G.ユング 「タイプ論」林 道義訳 みすず書房 p234

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上述のような、

男性を陽の力、神(シエン)、こころ(ゼーレ)の天上的部分と、

女性を陰の力、鬼(クウエイ)、こころ(ゼーレ)の地上的な部分とに

分けることは、

天界と地獄を遍歴した神秘家であるスウェーデンボルグさんも同様に、

男性を智性、真又は信として、

女性を意志、善又は愛として区別しています。

 

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三百六十八 

 

夫婦の間に両者の根本的心力の上よりして

此の如き和合あることは男女創造の真因より来れる也

そは、

男の生るるや自ら智的にして其思索知性よりすれども、

女の生るるや自ら情的にして其思索意志より来ればなり、

智性と意志との間

及び想念情動との間にも亦此に似たる区別あり

真と善、信と愛との間にも亦これあり

そは、

真と信とは智性に属し

善と愛とは意志に属すればなり

 

スエデンボルグ著「天界と地獄」鈴木大拙訳 p290

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また言うまでもないことですが、

このような対立する二者間の合一により、

新たな生命が生まれ、次世代へと受け継がれていきます。

 

対立物の合一、

としてユングさんは生涯に渡って錬金術に没頭したそうですが、

先に示した道教の陰と陽、

男性的なものと女性的なものとの結合には、

影響を受けていると思われます。

 

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影によって喚起される対立の問題は、

錬金術においては重大な、決定的な役割を演じている。

なんとなれば(なぜなら)

対立の問題は作業の経過にともなって最終的には諸対立の一致

聖婚(hierosgamos)つまり「化学の結婚chymische Hochzeit

という元型的形態における諸対立の合一へと通じているのであって、

ここに錬金術の眼目があるからである。

 

この結婚において、

男性的なものと女性的なもの(中国の陰と陽)

という形態をとった最高の対立が溶け合って、

もはやいかなる対立をも含まない

それゆえ不滅である統一物となる

 

C.G.ユング「心理学と錬金術 I」池田紘一・鎌田道生=訳 人文書院 p59-60

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このような対立する二者、

異性像は古来から人間のこころ(ゼーレ)、

魂を表現するものであるとユングは述べたそうですが、

ブログの著者自身も数年前までは、

あの人かこの人か、分別すること、区別すること、

意識することを当たり前のようにしていました。

 

しかし、

その当たり前の日常が非凡となった言葉に出会いました。

 

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忘るるものは贅沢になる。…

 

贅沢は高じて大胆となる

 

大胆道義蹂躙して大自在に跳梁する

巫山戯る。騒ぐ。欺く。嘲弄する。

馬鹿にする。踏む。蹴る。…

 

夏目漱石「虞美人草」新潮文庫 p453-454

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投げかけられた死と驚き、

生に投げかけられた死の問いかけを、

生に投げかけるのは誰なのか。

 

死んで無になるのなら、なぜ宇宙は存在するのか。

 

不死なるものとは、と自ずから問わざるをえない、

己れを超えた存在へと飛翔し志向したい、

という欲求を投げかける能動の姿勢の存在に、

捉えられたのであります。

 

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二千年前も、今日ただ今も、哲学は

<mortality:死すべきこと>の気づきにのみ発生する

翻って、

<immortality :不死なるもの>とは、と問うところに成長する

池田晶子「考える人 口伝(オラクル)西洋哲学史」 p112 中公文庫

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己れを超えた非人称、

人間が言葉を語っているのではなく、

言葉が人間を語っている非人称の視点、

発語するこころ(ゼーレ)、発語される言語(ロゴス)は、

分別する人称、

意識である人間を超えているのではないでしょうか。

 

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意識の言うことは

ごまかしや嘘やその他の気紛れでありうるが、

こころ(ゼーレ)が言うことは絶対にそうではない。

 

つまりこころ(ゼーレ)の発言

意識を超えたもろもろの実在を指しているので、

つねにわれわれの分別を超えているのである。

 

C.G.ユング「ヨブへの答え」林 道義訳 p7

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己れを超えた陰と陽、闇と光の全体性、

闇と光、鬼(クウエイ)と神(シエン)、

魄(ポー)と魂(フン)、意志と智性、

その二項対立の全体性、こころ(ゼーレ)の中に、

人間は存在しているのではないでしょうか。

 

地と天とを創造された神の中に、

人間は存在しているのではないでしょうか。

 

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は、善そのもの真そのものなること

また一切の善と一切の真とは神より出づること

故に善と真とにして、

善そのもの、真そのもの以外の源泉より出ずるは

決して是れあらざることは、

苟くも理性を享有するものの受理し是認する所なり

此事は理的人間が聞けば直ちに承認す

 

故に主によりて導かるる人が有する所の、

意志智性、即ち

即ち情動想念とに属する一切の事物は

悉く善と真とに交渉せざるはあらずと云うときは、

此の如き人が意志し理解する所、

即ち、その愛する所由りてさとき所

即ち、その動かざる所思惟する所は皆

主よりすると云うことは自ら推知せらるべし

 

是の理によりて、

(己の内なる)教会における人々は、

人よりするものは

善も真もまことの善にあらず、真にあらず、

主よりするもののみ善なり真なることを知るなり、

既に此の如くなるが故に、

此の如き人が

意志し思惟する所は一として主よりせざるはなきなり

 

鈴木大拙全集 第二十四巻

スエデンボルグ「神慮論」鈴木大拙訳 p316

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神の、こころ(ゼーレ)の、全体性の中に、人間は存在している。

となると、

こころ(ゼーレ)は、言語(ロゴス)は、

光と闇は、区別は、意識は、人間のものではないでしょう。

 

ところが、

人間の中に神が、全体性が存在している。

こころ(ゼーレ)が、言語(ロゴス)が、

光と闇が、区別が、意識が人間のものであるとすれば…

 

人間の意識のはじまりは、原罪のはじまりであると、

スウェーデンボルグさんは述べています。

 

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三百十三 p514

 

おのが本具の智慮によりて動くものと、

おのれに本具ならざる智慮

かくて神慮によりて動くものとの性質如何は、

聖言(聖書)によれば、エデンの楽園における

アダムとその妻イヴとを以てこれを記せり

 

エデンには生命の樹知識の樹と二本の樹ありと、

而して

彼等はかの知識の樹の実取りて食へりと云う

 

内的意義即ち霊的意義によれば、

アダムとその妻イヴとは、

地上における主の最太古の教会を謂い、

またこれを記述せるものなることは、

既に記せり(二百四十一)。

 

最太古の教会と云うは、

これに継ぎて起れる諸教会中の崇高を極めたるもの

且つ最も天的なるものなりき

 

自余(その他)の事物は何の義を表わすかと云うに、

エデンの楽園とは、

此教会に所属せる人々の智慧を謂い、

生命の樹とは、神慮より見たるなり

知識の樹とは、

おのれに本具の智慮より見たる人間なり

 

蛇は、感覚的生涯と人の自我を義とす、

自我とは、そのままに自愛なり、

おのれに本具の分別識に対する我慢心(慢心)なり、

かくて之を悪魔となしサタンとなす

 

この樹の実取りて食うとは、

とを主よりするものとせず、

かくて主の所有にあらずとし、

却て人間よりするもの、人間の所有なりしとて、

われに取り入れたるを謂う

 

而して

とは人の中に存する如実の神的事物なるが故に

(そは、善とはすべて愛に属するもの、

真とはすべて智に属するものを謂えばなり)

人もし此二つおのれに具有するものとなすときは、

彼は恰も

自ら神なるが如く信ぜられんとするも得ざるべし

 

是の故に蛇は曰う、

「爾曹が食う日には、爾曹の眼開け、

 爾曹神の如くなりて知るに至る

 (創世記、第三章、五)と。

 

地獄に在りて自愛に居り、

従いてわが本具の分別識に誇るものは

また実に此の如く思惟せり

 

蛇の處罰(処罰)は自愛自智との處罰を義とす。

イヴの處罰は意的我の處罰にして、

アダムの處罰は智的我の處罰を義とせり。

彼のために

地は荊薊(イバラとアザミ)を生ずるとは、

如実地における偽と悪とを云い

楽園よりの放逐とは、智慧剥奪を義とす。

 

生命の樹に至る途衛るとは、聖書及び

教会に属する諸聖行の瀆(犯)されざらんを欲するなり

 

彼等の赤裸なるを恥ぢて

自ら蔽いたりと云う無花果樹の葉とは、

彼等の自愛と我慢とに関する事物

隠さんため道徳的真理を義とす

 

彼等がその後その身に纏いたる皮の上衣とは、

真理の外観(即ち影像)にして、

彼等が有せる所は此の外にあらざりき。

 

これを此の如き諸事物の霊的意義となす

されど、

これを文字のみによりて解せんと思うものは、

然するを妨げず、只天界にては

此の如く理解せらると云うことを忘れざるべし

 

鈴木大拙全集 第二十四巻

スエデンボルグ「神慮論」鈴木大拙訳

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聖書の創世記には上述のような、

非人称の神からもたらされる天上的な智性と地上的な意志、

すなわち

二項対立のこころ(ゼーレ)を人間よりするもの、

として知恵の実を食べ、

原罪が生じたと記されているのではないでしょうか。

 

私のもの、として意識(区別)するところから、

私のもの、他人のもの、

自分と他人、二項対立、分別が生じ、

相手に対して、善い、悪い、

正しい、間違っている、優れている、劣っている、

として、善悪を付け、正誤を付け、優劣を付ける。

 

正義感、優越感による誇り、慢心、思い上がり、

劣等感による憎しみ、妬み、恨みつらみと、

地上にイバラ(偽)とアザミ(悪)が生じるのではないでしょうか。

 

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[悪魔いわく、―]

 

「『これは、わたしのものである』と人々が語るところの物、

また『わたしのもの』ということを語る人々、―

もしそなたの心ここにあるならば、そなたは、

わたしから脱れることはできないであろう道の人(仏陀)よ。」

 

ブッダ 「悪魔との対話」 

サンユッタ・ニカーヤⅡ 中村 元訳 岩波文庫 p54

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人間というものは、意識を持てば持つほど

神の隠れた知恵を少なくともまだある程度は

感づかせてくれる本能からますます切り離されてしまい、

誤りを犯すあらゆる可能性に曝されるものである

 

サタンの計略に人間は、

もし創造者(主)

この強力な霊に停止を命ずることができる・またはしようとする・

のでないかぎり、絶対に太刀打ちできないのである

 

C.G.ユング「ヨブへの答え」林道義訳 p83

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意識をすることにより、光と闇への区別をする、

その暗闇を照らし出す光としての意識は「火」としても表現できますが、

ギリシャ神話のプロメテウスとパンドラの物語にも、

明・暗と、区別し分別する「火」としての人称的な意識が禍を招くようなことを、

聖書の創世記に似た例えで暗示していると、

ブログの著者は解釈しています。

 

こころ(ゼーレ)2へ続く