【一神教について深堀り】

 

とにかくJWの教えは一神教。この一神教という考えが全ての違和感につながっているんだなぁ・・と。

 

一神教はたった一人しかいない神を基準にしてその神の視点からこの世界を視る。神から視たらどう捉えるかを考えて自分の視点にする。だから奇妙な事が起こる。

 

例えばものの長さについて。ある棒の長さを「これは何メートル?」と聞くことには意味がある。物差しで測ればわかるから。しかしメートル原器という1mを図る金属棒に「あなたは何で1メートルなのか?」と聞いても答えようがない。それが基準だから。そう決まっているから。

一神教の神もメートル原器と同じで「あなたはなぜ正しいのですか?」と聞いても答えようがない。理由は教えてくれない。何故なら自分が基準だから。

 

なので人間側は上手くいかなくてもへこたれないでこの瞬間も神は私の事を考えてくれてるんだ、と信じて神に従い続ける。

例えば戦争に勝つか負けるかが問題ではなく試練と捉えそれを乗り越えて行くことが神の期待に応えるということ。試練とは神が人間を試すという意味で神が人間を試すのはいいが人間が神を試してはいけない。

 

そう考えると神とコミュニケーションを取ることは不可能。コミュニケーションとは互いに理解しあう事。これでは一方的過ぎる。だから不可能であるということをそのまま受け入れることがエホバとの正しい関係で意図が分からなくても受け入れなければならない。

 

以上がちょっと抜粋してまとめた本の内容なんですがこれを読むとどんなおかしい事でもエホバが基準で愛とか何も関係なくそこにあるのはただの主従関係なんだということがわかりました。

だってわたしはこうしたいです、とは祈れないんですよ。あなたのご意思通りに・・としか。

こちらからの意見や気持ちを分かってもらう事はできない。こんな神様に人生を捧げる、これほど虚しく寂しい生き方は無いなと思いました。

 

 

こないだの集会でレットが話している動画を見せられましたが、そこではエホバはあなたに何も強要されることは無い、と。一方でその時に読まれたイザヤ48:18の聖句。そこにはこう書いてあります。

 

「ああ、あなたがわたしの掟に実際に注意を払いさえすれば。そうすればあなたの平安は川のようにあなたの義は海の波のようになるであろうに」

 

強制はしないけどわたしの掟に従わないなら平安や義は得られないよ。あなたの自由だけどね。・・脅しているようにしか思えないこの言葉を脅迫だと思えないような思考に変換させられている事がはっきりわかった瞬間でした。

もし以前の私のようにエホバに縛られ、苦しんでいる人がいたら気づいて欲しいと思いました。このカラクリを。決して愛の神なんかではない事を。恐れと絶対的権威を植え付け、健全な思考回路が持てないよう一神教という教えに囚われていることを。

 

このブログでも書いてきましたが一度自然消滅で離れていた時はエホバから離れた罪悪感でいっぱいで、やはりエホバの元にいる方が幸せだと思っていました。だから同じく離れていた子が戻ったという話を聞くと心がざわつき孤独感が襲ってきました。

だからこそ私生活でうまくいかなくなった時エホバに頼りたくなった。戻りたいと思った。私はJの中でも世の中でも生きられない。すごく苦しかった。私の中では親鳥が雛を守るように愛情を注いでくださる神、従わないものは容赦なく滅ぼす神、どちらもエホバでした。どちらか一つに思えたら楽なのに・・。

 

でも今では後者の神がエホバであり、しかもそれが真の神では無かったんだということがわかりました。だからといって他に唯一の神がいるわけでもない。一神教という教えに縛られるのはもう沢山です。