《信仰の定義》
信仰とは・・不合理な事をあくまで合理的に神との関係によって解釈していくという決意。自分に都合がいいから神を信じるのではない。自分に都合の悪い出来事も色々起こるけどそれを合理的に解釈していくと決意すること。
合理的解釈とは。
自分にとって不合理な時こそ神に祈り神と対話する。試練と受け止める。試練を将来の理想的な過渡期のプロセスとして受け止め言葉で認識し、理性で理解しそれを引き受けて生きる。信仰とはそういう態度を意味する。
信仰に対する見方がよくわかりました。合理的な解釈。今苦しんでいるのはサタンが提起した宇宙論争に対する神の正しさを立証するため。そして救われるため。きちんと原因と結果がある。だから盲信的ではない、と言い切れるんだろうなぁ・・と。
私の場合は自分の中でそれは不合理な事だったけど、自分で無理やりに合理的だと納得させていただけだった。それを信仰だと思い込んでいた。
聖書の中にはヘブライ11:1節で信仰についてこのように書いています。
「信仰とは望んでいる事柄に対する保証された期待であり、見えない実態についての明白な論証です」
この望んでいる事柄や見えない実態というのがほんとに不合理な事であっても無理やりに保証された期待にし明白な論証を作り出していたんだ。
そこからヨブの話について。
ヨブの話ってほんとに理不尽でひどいなぁ・・と思ってましたけど思わぬ着眼点が書かれていました。あの話の中にはヨブの三人の友が出てきましたよね。その友達は、
「ヨブが理由もなくそんなひどい目にあうはずがない。神はそんなひどい事はなさらない。神はそれに対する罰としてちゃんと理由があってひどい目に合わせている」
みたいなことをゆってましたがこれはヨブをくじかせる為のサタンの攻撃というふうに教えられてきました。確かに悪い事をしていないヨブにとっては酷な話ですが、この人たちの言う事もある意味正論で神を擁護しているんですよね。だってヨブの事情を知らないんだから。しかし神に言わせればそんなものは信仰としてダメだ。となる。しかもサタン扱い。
根本的に何も悪い事をしてないのにサタンによって試される事を許すエホバが一番おかしいんですがヨブはそれにすら耐え忍んだ。その信仰はそういう間違ってること(不合理なこと)をヨブなりに合理的に考えて正しいと思い込んでいるに過ぎない。
そして友人達の考えがおかしいというのも、ヨブの事情を抜きにすれば間違っている。エホバは何もしていない人にこんな悪い事が起こるのを許されるような神ではない、と言っているのだから。
結局はエホバの都合のいいように上手い事合理的に話を持ってきているだけで中身なんて関係ない。これが今までJとして学んできた「信仰」なんだと思いました。
この話をTwitterで上げた時にフォロワーさんと話してたんだけど、エホバは「毒親」に例えたらピッタリだと。
サタンの攻撃を見て見ぬふりして助けもしない。何故かというと自分のみ名の為。そんなのおかしいよね、と。
愛の神ならサタンに私の愛するヨブに手を出すな、そんなこと試さなくてもよい!と叱責するはず。どこの親が子供が自分の事を恨まないか苦しい目にあっているのに放置して試したりするのか。親は子供を愛しているからこそ必要なものを備えるし、敵から守るし、それを知ってるから子供も愛を返してくれるんじゃー!なのにうちの子はそれでも愛してくれるよー♪どうなるかやってみー?ってのが神様かーヽ(`Д´)ノ
ほんとそれ。
またこんな意見も。
エホバは人間を産み人間を思い通りにし、いう事を聞かなければ滅ぼす。子供(信者)も自立しないと。いつまでも親(エホバ)のいう事だけを信じて自分で考えることを放棄し親に依存したって幸せになれない。信仰=依存ですね。
ほんまそれ。
こんな毒親からは離れてしっかり自分で生きていかないとだめですよね。
一つの考察から色んな派生が広がって行って面白いですね(≧▽≦)