●8/1 ブログタイトルを変更しました。

 

 

その1の続きです。

 

 

 

 

2022年6月1日放送

クローズアップ現代その“痛み”を抱きしめて〜作家・桐野夏生〜

 

 

たまたま見たこの番組の中で桐野さんの過去のインタビュー映像が流れました。そこで話された内容に、「そうだったのか」とやっと気づいたことがあったのです。

 

 

 

★桐野夏生さんについてと、番組の内容についてはこちらに詳しく掲載されています

 

 

 

 

 

 

 

 

 

生きにくさを感じながら生きてるのは私もそうなのですが、桐野さんは人や物事をひとくくりに”ラベリング”する風潮が、多くの人を生きにくくしているのではないかと話されてました。

 

 

 

「安易なラベリングにはなるべく抗おうと思ってる、そのために仕事(小説を書くこと)もしてるんだと思うんだけど。」

 

 

 

という桐野さんも「女はこうあるべき」とラベリングされることで生きにくさを感じてきたと、過去のインタビュー(1999年)で話されてました。

 

 

性としては女ですから、子どもも産みますしそれからもちろんその、主婦の仕事もします、結婚していますし。で、仕事ももちろんします。

 

 

だけどやっぱりなんかこう・・・現実と折り合わない。

 

 

ある意味で生き方を強要される部分がどうしてもありますし、子どものときからずいぶん(なんでしょうね...)自分らしくありたいということがことごとくぶつかることなんですね、女で生まれるということは。

 

 

 

太字にした部分の言葉が、長い間ずっと私の中で「なんで思うように生きられないんだろう」というモヤモヤに対する具体的な答えになったのです。

 

 

そう、現実と折り合わないのです。女であり、妻であり嫁であり母親であるというそれらの役割に外側から求められるものと、私自身が求める理想の心地よい在り方・生き方が一致しない。

 

 

少し前に書いたこの記事についても、そういうことなのです。

 

 

 

 

 

だからか、だからなのか、と、スッキリしたのです。

 

 

その1に書きましたが、私が「こんなふうに生きられたらいいなあ」と思う生き方・在り方は、多くが男性が体現しているものでした。たまたま男性だったというだけで性別は意識していなかったのだけど、遠い遠い理想のまんまで近づけないのは女性と男性という違いも大きいのかと、落胆ではなくなんかホッとしたような気持ちになったのです。

 

 

それは無理もないな、って。

私の努力不足とか、勇気がないとか、そういう類の話だけじゃないのかもって。

 

 

自分を責めずそんなふうに思えたのは「自己責任」という言葉についての桐野さんの考えを番組から知ることができたからです。

 

 

(その3へ続く)

 

 

 

三びきのこぶた イギリスの昔話 (こどものとも絵本) [ 瀬田貞二 ]

 

 

 

今でも覚えている、私が通ってた保育所で毎年行われていた発表会のこと。保護者の前で楽器の演奏や歌、劇を披露するあのおなじみの行事です。

 

 

年長の時だったかな?

その年の劇は「三匹の子豚」でした。

 

 

紙に豚の顔を書いてお面を作り、頭につけてその役を演じる・・・物語の内容はご存じかと思いますが、オオカミ役は男の子が二人、その他は子豚役でした。なので私も子豚役。(おそらく全員参加なのでオオカミは1匹ではないし子豚は3匹ではなかった)

 

 

オオカミがやってきた時に、いっせいに「きゃ〜〜!!」と言って逃げ出す、という子豚の演技があったんですけど、どうしても私、それが恥ずかしくてできなかったんです。その演技をするのがすごくすごく嫌だった。

 

 

頑なに拒んでいたら、先生は私をオオカミ役に変えてくれました。私からリクエストしたのか、それとも「オオカミだったらできる?」と聞かれたんだったか、そこは覚えてないけど・・・

 

 

そしてオオカミ役は三人になり、私は「きゃ〜〜〜!!」の代わりに、積み木に乗った少し高いところから「ウォーーー!!!」というオオカミの叫び声?を二人の男の子とともに発することになったのでした。その姿は何枚かの写真に残ってます泣き笑い

 

 

これは全然恥ずかしくなかったんですよね、なんでだろうか。

 

 

という、もしかしたらこれが私の社会に対する最初の”抗い”だったかも知れないという、四十数年前の話でした泣き笑い