中米にきて2週間。
なんだか、去年までの旅とは違う感覚が、自分の中に生まれつつある。
それは中米だから感じた、というわけでもなくて、似通った部分をもつ途上国の空気みたいなものを、もういくつも見たから感じる事なのかもしれない。
貧困=「かわいそう」ではなくて。
いや、むしろ、何を以って「貧困」と言うの?とも思う。
世界の中でも富の方を手にしてしまっている自分たち。
そしてその目からみる、「貧しい人たち」という目線。
なんか、これまで勘違いしてたんじゃないか。
なんか、自分はこの一方的な、「富の側からのまなざし」を向けてたんじゃないか。
自分では何も同情や上下関係を生んでないつもりで見ていても、やっぱり「かわいそうな目線」を、固定観念的に向けていたんではないか。
今回、旅という事に少しだけ慣れたせいか、前より、地元の人たちの生活をもっと実感できるようになってきた。
そうすると、生活の中での喜びも悲しみも、もちろん自分の暮らしとの共通点も、たくさん見えてきて、
なんにも「かわいそう」ではない、
なんにも「特別」ではない事が、しみじみと染みわたってくる。
誰だって一生懸命生きている。
その中での様々なできごとの中に、私なんかがお邪魔して、その一瞬を切り取って理解していただけで。
その切り取りを、一方的に理解する、それだけだったんじゃないか。
でも、たぶん、そっちじゃなくて。
問題なのは、
「富を持つ側が持ち過ぎている事」なんじゃないか。
勝手に資源を奪ったり、不公平な労働をさせたりしてきた歴史と、現在。
そうして回ってきた経済の中で、もう当たり前すぎて当たり前になってしまっている、この不公平さを、放っておいていい、という空気。
金を持ってる観光客と、必死で安いものを売ろうとする地元の人たち、という構図の中で、
購入を断る偉そうな態度の自分と、それでも売りつけようとする地元の人の姿が、悲しくなる。
そういう事じゃないでしょ?
私たちがほしい世界は、そういう差を、はじめから与えられてしまう世界なの?
違うと思うんだ。
商人は商人で、いいものを自信を持って売り、
買う人は。日頃働いて稼いだ金を、美しいものや必要なものの購入にあてる。
それでいいじゃないか。
持ちすぎる人もいらない。
持たなすぎる人もいらない。
がんばって生きる人に、均等な機会が与えられるような世界を。













