いっこ前のブログのなかで




カラダの邪魔をしない

人生の流れの邪魔をしない

どうにかしたいってジタバタする自我を黙らせて

立ち止まって、ただ待つ


感じる、受け取る、味わう、流れに逆らわないで流される

そういう静の時間

ただリラックスする時間ってとっても大事



って書いてるんだけど

わたし自身ずっと待てなかったし


本当に最近になってやっと、なんとなく

待つ、わいてくるまで待つ

というのがわかりかけてきたところ



待ってると思ってたんだけど

全然待ってなんてなかった


待つことが怖かったのかもしれない


待っている時間

そこにあるのは虚無でしかないと思っていた


虚無はなにも産まず、怠惰で、何にもならない

成果を産むためには動かなければ、って



たしかに、虚無。

なにもしない、なにもない時間


だけどその、なにもないところは

マイナスではなく

ゼロであり無限


なにもない、なにもしないの中にある無限を

わたしは知らなかったし、感じようともしなかった



それで、頭で考えて

せわしなく思考を働かせて

なんとかしようとしていたのだけど





絵を描くのは苦手だ

うまくいかない

思うようなものが描けない


でもなぜか、刺繍なら描ける

どんなに下絵がアレな感じでも

最終的にちゃんと形になる


これがわたしの才能♡




そんな風にね、思っていたわけですよ



絵を描こうとしても

どこに線を置いたらいいかわからない


でも針と糸ならば

次にどう運べばいいかがわかる、って



これは単純に

意識の置き所の違いなんではないかと

ふと気づいてしまった



絵は、それこそ生まれてからこれまで

毎日どこかで目にする


アニメや漫画や挿絵やイラストや

ありとあらゆるデザインが世界にはあふれ

今はSNSで神絵師さんたちの描く行程から何からまで見ることができる


そんな絵を描きたい

あんな風に描きたい


思考が先行するのだよね

『描きたい』という衝動じゃなく

出来上がった美しいものにだけフォーカスして

あんなことやりたい♡って言ってるだけで



リスペクトもなんもなく

ただミーハーな感じに

あれやりたーい


で、ちゃちゃっとやろうとして

できないや、ってなってるんだ




刺繍のほうは

なんでかそれがわたしの仕事だと思ってしまったもんだから

インスピレーションがちゃんと余白にやってきて


そしてなにより

ちゃちゃっとはできない


一針縫うという動作

刺す場所を定めて針を刺し

糸が絡まないように引き…

それを呼吸とともに無限に繰り返す


『絵のようにはさらさらっと描けない』ことが

自然と『待つこと』を促してくれていた








そしてね

これもまた失礼な話だよね


刺繍は時間がかかる、というのはたしかにそうだけど


『絵ならさらさらっと簡単に描ける』って

どこかで思っていたんだもの


もちろんずっと絵を生業にしてる人や

絵とともに生きている人は

そりゃあ描き慣れているから

さらさらっと簡単に描いてるように見えるけど

それが簡単だなんてわたしが判断できることじゃない



リスペクトしているつもりで

リスペクトがなかった


これはあらゆる面において、よ

凹む。。。




あの赤い魚は右下の方に来る予定




虚無はなにも産まず、怠惰で、何にもならない

成果を産むためには動かなければ、って

思っていたけれど


でもその『成果』というものは

ただ指先でがむしゃらにやったところで産み出せるわけでもなく

なんとなく形になったとしても

木偶でしかないのだ







これまでにつくってきた作品たちも
今回のも
ずっと『待つこと』を教えてくれていた

けど、意識的にそれをできていたわけではなく

ふと湧いたものに従って走ってきたけど
筒であり、筒でなく
からっぽというか、スカスカの自我人形がやっていたことだった

筒であること、って
大いなるものの意思をそのまま通す
不純物なく通すための通路であれ
ということだと思っていて

それはたぶん、そうなんだけど

なんのとっかかりもない通路なら
それは機械で産み出したように
つるんとした無機質なかんじというか

雨樋の筒や、用水路に注ぐパイプみたいな
なんの意思もなんの感情もない筒だと
人間がやる意味がない

『わたし』のところに湧いた意味が
なくなってしまうよね


自我を捨てた先にある
純粋な命の筒で
カラダの内を通ることで
わたしに何かがわいて
それを指先で綴るから命になるんだ


自我の領域で
このちっぽけな脳ミソで
筋道を考えなくていいからとても簡単で

限りなくクリアでいるために
純粋な命で、純粋なカラダであるために
常に自分を見ていないとできない

逃げたりせず
すべてを受けて
すべてを通すわたしでないと
意味がないんだな



そうじゃなく、ただ手を動かして産んだものたちは
どんなに見栄えがよくったって
習作の域を出ないのだ


って
そんな言葉がぽろっと出てきて
ちょっと茫然としている今。


腹の奥の奥
やっと気づいたか!って
ケラケラ笑うわたしがいる






このこねぇ
タイトルが『混沌/zero』の予定なんよ

いつもその通りの体験がやってくる
わからないなりに、鍛えられているのかなぁ。。