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母にあることを依頼された際に、周波数&思考に嵌って、そのまま行動を起こしたことに対する観察となります。

 

この出来事よりも過去の時点で、母が何度か、○○についてどうしよう、、Aからも連絡ないし、

××はもうすぐ切れてしまうし、、、という内容を母はわたしに言ってきます。

そこでわたしは、Aに電話也で確認したらいいんじゃないの?Aからの連絡を待っているのではなくてさ、と伝えます。

それに対し母は、電話聞き取りづらいし、なんて伝えたらいいのかすぐに出てこないかもしれないし、かけづらいなぁ、、、とぶつぶつと続きますが、

そこはわたしはスルーしていました。

 

そして、とうとう××が切れてしまった日、さらに母はその日体調がイマイチで、

弱々しい声で「○○について、Aに電話して確認してもらえる?」と言ってきました。

 

共通事実は、母から○○について依頼された ということですので、

わたしはその依頼されたことをやったのですが、

周波数、思考にしばらく嵌っており、そのまま行動グランディングしていました。

 

その際の思考は、散々早めに確認したほうがいいと伝えていたのに、まだやってなかったのか!

電話だと聞こえづらいとか、なんて伝えたらいいんだろう、、みたいな、だからやって、を察してみたいな言い方じゃなくて

クリアに「○○お願い」と言えばいいのに。。

はっきりと依頼しないのってずるいわ~

そして、××が切れて、本人体調悪くて弱々しい声で、切羽詰まった感じで依頼してくるってなんかいやだわ~

 

という思考を抱きつつ、否定的な周波数が出ていました。

 

まず、散々言ったのに。。。という思考は、意識のフォーカスが今この瞬間ではなく、過去点にあるというのがわかります。

しかし、フォーカスすべきは、今この瞬間 のみです。

 

そして、はっきりと明確に依頼をする=肯定、あいまいな表現(で察して)=否定 に振り分けています。

 

はっきりと依頼するというのは勇気がいることだ、と思考するわたしがいまして、

誰かに何かを依頼する というのは、相手に負担や負荷がかかることを頼むこと であり

それを明確に伝えるということは、YES/NO が明確に返ってくる可能性も上がるわけで

「断られ」たら嫌な気持ちになるかもしれないけれど、そこを超えてはっきりと依頼する のを良しとしてます。

 

この勇気を持たずあいまいな表現で相手に察してもらう は

相手に委ねる楽な創造だし、依存的であり、否と反応しています。

 

この否定している創造構造はわたしの鏡だと観察しますので、

わたしはどこで明確な反応(回答・返答)をもらいたくなくて、あいまいな察してほしい、、をやっているのでしょうか。

ここは要観察です。

 

そして、何度か、過去点において、母は同じようなことをわたしに伝えてきていました。

つまり、○○についてどうしよう、でも自分で確認できない、、、と何度か伝えてきています。

 

この明確に依頼をしない、相手というわたしに対しては、電話がかけづらいなら、わたしが確認しようか?

という声掛けをするのが、循環的な行動だったのかな~と今は捉えています。。。

 

母ができないことをどんどんわたしがやっていったら、どんどんできないことが増えていくんじゃないか、、

できればいつまでも元気で自立的でいてほしいという自我都合の思考がありますが

フォーカスするのみは、自分の世界のみで、相手がこうなってしまうなどは領分外 なんですよね。

 

「そんな事したら、わたしばっかりが全てを
引き受ける事になる」「ちゃんと伝えて、
協力してもらうようにしないと」「相手が
どんどん楽しようとして、わたしばっかりが
しんどくなる」「つけあがる」等々、
どこまでも大暴れするはず。

しかし、この観点こそ「二元」の骨頂であり
二元構造の意識基盤に自らを呪縛する
特徴的な意識の在り方です。
創造主は「わたし」という体験者の世界を

創造します。なので、「相手」がどんな
創造を選択決定するかは無関係です。

「わたしがこうしたら、相手がこうなる」とか
「わたしだけこうで、相手だけこう」とか、
「相手がどんな世界を体験するか」や
「損得の比較」などは領分外であって、
「わたしが、目の前の現実に対して、
どのような意識の在り方で、何を軸に、
どう行動グラウンディングするか」に
全力で集中すればいいだけです。

 

↓のブログより、引用しました。

 

 

 

 

最後までお読みいただきありがとうございました☆

それではまた~