生活苦と人生苦(5)
私の幼馴染に競馬好きの男がいる。別にギャンブル狂というわけではなく、節度ある賭け事を楽しんでいるようで、毎週土日になると終日あれこれ予想をして一喜一憂している。一体何がそんなに面白いのか、私には全く理解できない。ドストエフスキイの『賭博者』を読むと、賭け事には人を魅了する(あるいは狂わせる)何かがあることは分かる。その何かには「節度ある賭け事」では到底辿り着けないと思われるが、所詮臆病者の私には縁のないことだ。ただし、もしそんな意味のない賭け事に自分のイノチを懸けられるとすれば、それは魂の糧に限りなく接近するような気がする。勿論、そうしたバカなことをする人は滅多にいない。もしいれば、ギャンブル依存症と即座に診断されて「普通の生活」から追放されるだろう。私の幼馴染のように「節度ある賭け事」に留まっていれば、その娯楽は生活を潤す「肉体の糧」であり続ける。しかし、生活を維持する節度の一線を越えると全ては一変する。生活の愉しみである賭け事は娯楽の閾を超え、生活を破壊する凶器と化す。延いては生活苦をもたらす原因にもなる。実に危険なことだ。それにも拘らず、人生には健全な生活の一線を越えねばならぬカイロスがあるのではないか。ゾーエーの充足や生活の愉しみとしての娯楽という肉体の糧では満たされぬ何か、すなわち魂の糧が必要になるのではないか。肉体の糧が常に「生命尊重」を前提としているとすれば、魂の糧は絶えず「生命尊重以上の価値」に駆られている。イノチを懸けるもの、それが魂の糧だと言ってもいい。肉体の糧だけで満足できれば生活苦からはやがて解放されるに違いない。されど、魂の糧がなければ人生苦は続く。果たして、魂の糧は劇薬であろうか。