意に沿わぬ真実に生きる | 新・ユートピア数歩手前からの便り

意に沿わぬ真実に生きる

「東大生になる」という下らない夢に憑かれた高校生が受験に失敗する。結果、三流大学生になる。何処に言っても「三流大学の学生」という目で見られる。それが自分の真実だから仕方がない。「自分は東大の学生」という真実なら胸を張って生きられるが、「自分は三流大学の学生」という真実は耐え難い。これからずっと死ぬまでこの真実に生きなければならないかと思うと気が滅入る。死にたくなる。されど自らゾーエーを停止させる勇気もない。かくして意に沿わぬ真実にダラダラと生き続けることになる。実に醜悪だ。勿論、「東大生になる」という夢が叶わないことが醜悪なのではない。それが自分にとって「本当」の夢であれば、何度失敗しても受験し続ければいい。いつか必ず夢は叶うだろう。しかし、そんなことをして何の意味があるのか。醜悪なのは夢に執著し続けることだ。誤解を恐れずに言えば、夢が叶って「自分は東大生だ」という真実を誇って生きることも醜悪極まりない。通常、「東大生になる」という夢に限らず、夢が叶えばビオスは充実すると思われている。幻想にすぎない。人にはそれぞれ夢がある。夢が叶っても挫折しても人生は続く。夢が叶えば意に沿う真実が、夢に挫折すれば意に沿わぬ真実が、それぞれの人生を支配する。当然、意に沿わぬ真実を余儀なくされる人はルサンチマンを懐く。何に対してか。夢が叶って意に沿う真実に生きる「勝ち組」に対してか。私はそこに大きな問題を見出す。「不揃いの林檎たち」は真理への道を切り拓かねばならぬ。