補足:「裸の王様」の悲哀
「裸の王様」は裸体にも拘らず豪華な衣裳を身に着けていると見做される。豪華な衣裳など何処にもないのに…。従って、「王様は裸だ!」という叫びが真実となる。しかし、この真実は「バカには豪華な衣裳が見えない」という詐欺師(仕立屋)の巧みな虚言によって隠蔽される。誰も自分がバカだと思われたくないからだ。この虚栄心が「ないモノ」を「あるモノ」にし、「見えないモノ」を「見えるモノ」にする。虚栄心とは無縁の純真無垢な子供だけが真実を見抜く。通常、それが「裸の王様」の教訓とされるが、果たしてどうか。「本当」の教訓は真実を見抜くことから始まるのではないか。すなわち、「王様は裸だ!」という真実の叫びが「王様とは何か?」という真理の次元を切り拓く。もし仕立屋が詐欺師ではなく立派な職人なら、王様に相応しい豪華な衣裳が確実に用意されるだろう。民衆はその豪華な衣裳を目にして「王様、万歳!」と叫ぶに違いない。それが真理の叫びであろうか。もし他の誰か、例えば見窄らしい乞食が豪華な衣裳を身に着けても、やはり「王様、万歳!」と叫ばれるのだろうか。もしそうなら、豪華な衣裳が人を王様にしていることになるが、それは明らかに本末転倒だ。さりとて裸体の人を王様と見極めるのは難しい。やはり一般的に人は衣裳で判断する。衣裳に真理が現れるとしても、衣裳はあくまでもモノにすぎない。真理そのものではない。それ故、真実を見抜く力と同様に、真理を見抜く力も要請される。前者は純真無垢な子供に自然に備わっていたが、後者はどうしたら得られるのか。「裸の王様」も「豪華な衣裳の王様」も共に「自分は本当に王様なのか」という悲哀に苛まれている。裸体の真実と衣裳の真理。その葛藤は永遠に続く。