真理追求の悲哀(9) | 新・ユートピア数歩手前からの便り

真理追求の悲哀(9)

私は単純な男なので、真理が貫かれるドラマを好む。ただし、真理は常に真実との関係においてある。その関係は錯綜しているので一筋縄ではいかない。昨日の便りで述べたように、真実に反して真理に生きることもあれば、真実に徹することが真理に繋がることもある。私は基本的に「ゾーエーの真実とビオスの真理」という対比で思耕しているが、真理は常に「真実にも拘らず」という逆説を胚胎している。すなわち、「生命尊重」の真実にも拘らず「生命尊重以上の価値」という真理にイノチを懸ける、というように。この点、「生命尊重」は「生活第一」とも言えるが、「生活上の真実」と「事実としての真実」は微妙にズレていく。例えば、或る大企業の自動車会社が自社製品のリコール隠しを画策する。これは池井戸潤原作の『空飛ぶタイヤ』というドラマで描かれた問題だが、そのリコール隠しを命じた大企業の常務は「社員全体の生活を守るためには已むを得なかった」と嘯く。「会社組織を守るため」と言っても実質的には同じことだが、そこには「生活上の真実」がある。会社を守るため、自分の生活を守るため、自社製品(トラック)の致命的欠陥という「事実としての真実」を隠そうとする。「生活上の真実」のために「事実としての真実」が隠蔽されるわけだ。されど、ドラマでは自社のリコール隠しを内部告発する社員が現れる。言うまでもなく、この社員は自社の倒産及び自らの失業を覚悟している。つまり、自分の「生活上の真実」を犠牲にして「事実としての真実」を暴いたのだ。ここに真理のドラマがある。もとより現実はドラマのようにいかないだろう。「生活上の真実」(失業したくない!)のために自社のリコール隠しに加担もしくは見て見ぬふりをするのが大半かもしれない。実際、曲がりなりにも大企業の社員でいれば「家庭の幸福」は約束されたようなものだ。その幸福を棄ててまで真理を貫く意味はあるのか。意味はない。それが真実だ。その真実にも拘らず、真理は追求される。真実を踏み越えていく悲哀の中で。