真理追求の悲哀(8)
ゾーエーの真実とビオスの真理。水平的に生活する日常において二つに引き裂かれることは殆どないが、踏絵の試練は必ずやって来る。踏絵はかつての隠れキリシタンに限られたことではない。学校や会社などの組織の中でも、同調圧力に屈するか否かの瞬間が襲ってくる。誰かが虐められている時、「やめろ!」の一言を発せられるかどうか。会社の組織ぐるみの不正を知った時、それを告発できるかどうか。踏絵は至る所にある。踏むか、踏まないか。踏めばイノチは助かる。しかし、魂は死ぬ。踏むことを決然と拒絶できる人は、イノチが途絶えても魂は永遠に続くと信じている。イノチが「実」で、魂の永生は「虚」だ。イノチが消滅した後のことなど誰にもわからない。そんなわからないものにイノチを懸けられるだろうか。真実に忠実な者、更に言えば真実しか信じない者は決してイノチを棄てるようなことはしない。如何なる状況であろうと、イノチ以上に大切なものなどこの世には存在しないからだ。されど現実には、自分のイノチを犠牲にして他者のイノチを救おうとする奇特な人がいる。あるいは、他者に自分のイノチを奪われても信念を貫こうとする人がいる。こうした人は真実に反して真理に生きる。真実に生きている人にとっては、大切なイノチを「虚」に懸ける狂人にしか思えないだろう。果たして、「生命尊重以上の価値」はあるのか。それを信じる者は狂人なのか。真理追求は否応なく悲哀を伴う。