真理追求の悲哀(6) | 新・ユートピア数歩手前からの便り

真理追求の悲哀(6)

柄谷行人氏は安吾について次のように述べている。

 

坂口安吾は、われわれを根源的に突きはなす何かを「文学のふるさと」と呼んだ。「ふるさと」とは、帰りついて安堵するような自己同一性ではなく、われわれを突きはなし無根拠のなかに生きることを迫るような「他なるもの」のことである。だが、同時にそれは、われわれをたえず生きる方向に鼓舞する。その意味で、安吾は私にとっていつも懐かしい「ふるさと」である。完成とは無縁だった安吾の作品は、日本の知性上の事件として現在形において在りつづけている。

 

ここには真理が息づいている。一般的には「帰りついて安堵するような自己同一性」の場所が故郷と見做される。安吾の言う「文学のふるさと」は異郷と称すべきだろう。故郷に安住したいという自然の情が真実だとすれば、真理はそれを踏み越えていく。「ふるさと」はもはや安住の地ではなく、「われわれを根源的に突きはなす何か」だ。故郷喪失は不可避であり、全世界を異郷とすることに「本当」の生がある。されど、その真理は悲しい。「無根拠のなかに生きる」とは根無し草として生きることに等しいからだ。その悲しさ故に、人は何処かに根付こうとする。そして、その何処かは故郷である場合が多い。つまり、故郷の真実に回帰しようとする。それはアルカディアへの回帰を意味するが、果たして可能だろうか。私は甚だ疑問に思うが、自然に即した生活を望む人はいるに違いない。そのライフスタイルを否定する権利も資格も私にはない。ただ、アルカディアへの後向きの運動は意味がないと思っている。楽園に回帰しても、その喪失を繰り返すだけだ。アルカディアの反復を望むなら、それは前向きの運動でなければならない。すなわち、故郷喪失を前提とした上で「ふるさと」をつくる、ということだ。ただし、前向きに反復されたアルカディアは実質的に異郷に等しく、パラダイスとも対峙する。アルカディアか、パラダイスか。真実を踏み越えた真理はその狭間で揺れ動く。