真理追求の悲哀(5)
真理の追求が悲しいのは何故か。真実を踏み越えていかねばならないからだ。真実はゾーエーの「必要」であり、自然に即して生きることでもある。どこか故郷に似ている。いつまでも故郷で暮らしたい。それは自然の情であり、幼い頃は誰もがそう願っているのではないか。故郷は存在の本来性が見出され、ゾーエーの「必要」が満たされる場所であるからだ。しかし、それはやがて幻影と化す。故郷それ自体の変化もさることながら、人は成長するからだ。余談ながら、「国民的アニメ」と称される『サザエさん』が六十年に及ぶ長きに亘って人気を博しているのは、そこに多くの人が「失われた故郷」を見出しているからだと思われる。どうして「サザエさん一家」が人々の故郷であり続けられるのか。それは登場人物が全く成長しないからだ。サザエさんはいつも若々しく、波平もフネも相変わらず元気で、カツオもワカメもずっと小学生のまま「永遠に循環する時」を生きている。そんなことは現実にはあり得ない。否応なく親の介護や財産の相続、子の受験や就職などの諸問題が生じてくる。故郷喪失は不可避だ。いつまでも子供のまま生きられないのと同様に、人は存在忘却を余儀なくされる。それでも故郷の幻影は残る。『サザエさん』同様、映画『男はつらいよ』も長きに亘って人気を博しているが、観客は葛飾柴又にそれぞれの故郷の幻影を求めているに違いない。車寅次郎自身、繰り返し故郷・葛飾柴又に戻って来るが、やがて再び旅に出ざるを得なくなる。「葛飾柴又でサクラやおいちゃんおばちゃんと暮らしたい」という真実を踏み越えて旅に出る――「そこが渡世人のつらいところよ」と寅さんは言うが、真理追求も然り。寅さんが真理を求めて旅を続けているとまで言うつもりはないが、真実に安住しているサザエさんとは明らかに違う。渡世人の寅さんには悲哀が感じられる。