真理追求の悲哀(4) | 新・ユートピア数歩手前からの便り

真理追求の悲哀(4)

生きる意味は「必要」と密接に関係している。それは「生活の必要」と言ってもいい。幼い子供は生きる意味を問わない。親が「生活の必要」を満たしてくれるからだ。親から自立して自分で自分の「生活の必要」を満たさざるを得なくなって、ようやく子供は自分の生きる意味について考え始める。すなわち、如何にして「生活の必要」を満たすか、その問いが生きる意味を形成する。一般的にはそのように考えられるが、果たして「本当」にそうか。「生活の必要」とは主に「食うための必要」だが、食うに困らぬ生活に生きる意味を問う必要はないのか。確かに、生きる意味を失うのは失業などによる生活困窮者が多い。つまり、貧困生活には生きる意味がない。だから再就職して「生活の必要」が安定すれば、生きる意味もまた回復する。しかし、「生活の必要」が満たされても、いや「生活の必要」が満たされた後にこそ、人は「本当」に生きる意味を問うのではないか。誤解を恐れずに言えば、人が「本当」に生きる意味は「生活の必要」を超越している。私は別に「生活の必要」を蔑ろにするつもりはない。「生活の必要」の充足とは言わばゾーエーの充足だが、それが幸福であることは間違いない。実際、殆どの人はその幸福を求めて生きている。されど、人の幸福はそうした水平的幸福に尽きるものではない。「生活の必要」が満たされる幸福が真実だとしても、それを超える真理がある。ただし、真理は悲哀に満ちている。「白鳥は哀しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ」と牧水は歌ったが、「空の青海のあを」という色の真実に染まることのない白い鳥は孤独に真理を求めて漂い続ける。