真理追求の悲哀(2) | 新・ユートピア数歩手前からの便り

真理追求の悲哀(2)

「法隆寺も平等院も焼けてしまって一向に困らぬ。必要ならば、法隆寺をとり壊して停車場をつくるがいい。我が民族の光栄ある文化や伝統は、そのことによって決して亡びはしないのである」と安吾は喝破したが、その「必要」こそ真実だと言える。ただし、「必要」は時代と共に変遷する。法隆寺や平等院も何かしらの「必要」があって建立されたに違いない。その「必要」は今や停車場の「必要」と鬩ぎ合う。あるいは、これから食糧難の時代が到来すれば、農地の「必要」と鬩ぎ合うことも考えられる。その時代の大半の人が法隆寺や平等院の「必要」よりも停車場や農地の「必要」が優先されるべきだと判断すれば、法隆寺や平等院は容赦なく取り壊されるだろう。それは一体何を意味するか。法隆寺や平等院の「必要」が停車場や農地の「必要」に転化・発展したと私は解釈したい。それが真理の運動だと考えられる。しかし、そのように理解された真理は悲しくて遣る瀬無い。真理の名の下に実に多くのものがこの世界から姿を消してきた。奴隷制などの理不尽なものがなくなるのは当然だとしても、それは単なる合理化とは違う。便利な機械が発明されると人力の「必要」はなくなる。総じてアナログの「必要」はデジタルの「必要」に淘汰される。合理化は正しい。正しいが、真理とは言えない面もある。地下生活者によれば、二二が四は正しいが、同時に死の始まりでもある。どうも真理は二二が四では語り尽くせないようだ。真実は合理的だが、真理は非合理的だと言わざるを得ない。尤も、真理も徒に不合理なものを容認するわけではない。非合理と不合理では次元が異なる。非合理は合理性の欠如ではなく、あくまでも合理性の超越でなければならない。超現実が単なる現実からの逃避ではないように。端的に言えば、真理は合理性の正しさを超えている。そうした意味において、ニーチェの有名な次の言葉を理解すべきだろう。「真理とは、それなくして特定種の生物が生きることができない類の誤謬である。生にとっての価値が最後に決定を下す。」真理は誤謬――その逆説に真理追求の悲哀が如実に表現されている。