律の超克としての「三態の変化」(9) | 新・ユートピア数歩手前からの便り

律の超克としての「三態の変化」(9)

優等生と劣等生。人をそのように分ける律がある。優良と不良を分ける律も然り。通常、人はその律に従って生活している。しかし、優等生でない人は優良ではないのか。学業では劣等生でもスポーツでは優等生だという人もいる。分野が異なれば律も異なる。学歴偏重の律が未だ社会に根強いものの、人は自分が「本当」に生きるべき律を見出さねばならない。重要なことは自分を劣等な不良だと決めつける律を否定することではなく、その律を超越することにある。例えば、かつて「東大粉砕!」と叫ばれた熱い時代があったが、それは東大に入れなかった劣等生のルサンチマンだと見做されても仕方がない。確かに、学歴社会の頂点に君臨する東大を粉砕すれば、人を優等生と劣等生に分ける律も粉砕できると思われる。しかし、「本当」にそうか。美人コンテストを粉砕しても、美醜を分ける律まで粉砕できない。世界には様々な律が錯綜している。学歴社会も美人コンテストも醜悪だが、「本当」に醜悪なのはそれぞれの律に支配されることだろう。すなわち、他律的な生き方だ。ただし、他律は抑圧とは限らない。むしろ、他律は安楽で幸福な生活をもたらしてくれる。実際、どんなバカでも東大生であれば、世間は優等生と認めてくれる。これほど楽なことはない。だからこそ、多くの受験生は東大を目指すのであろう。されど、それで優等生の成功を獲得できたとしても、所詮それは駱駝の幸福にすぎない。「駱駝の幸福で十分だ!」という人が大半かもしれないが、ここではそれに反撥する獅子に注目したい。当然、獅子は自律的な生き方を求める。では、自律とは何か。「汝の意志の格率が常に同時に普遍的立法の原理として妥当し得るように行為せよ」というカントの定言命法のように、意志の格率と普遍的立法が一致することに他ならない。この一致がなければ、自律は単なるエゴイズムか他律と大差ないものと化してしまう。果たして、そのような一致が獅子に可能であろうか。