律の超克としての「三態の変化」(8)
超克は否定ではない。かつて私は律を否定することで自由になれると思っていた。あらゆる規則に反撥する不良少年のように。今でも若者に人気の青春ドラマでは、校則に忠実な優等生と校則など無視する不良学生との対比において、後者に自由があるかのように描かれる。とんだお笑い草だ。優等生が駱駝だとしても、その在り方を否定する不良学生が獅子になるわけではない。不良学生は単に優等生の律からの落ちこぼれにすぎない。そして、多分にルサンチマンから、優等生の律など自己欺瞞だと思い込む。偏差値の高い大学を出て、給料の高い職に就き、スペックの高い配偶者を得て、幸福な家庭を築く。それが「本当」に生きることなのか。家庭の幸福は諸悪の本。さりとて、それを得られなかった不良学生の不幸を正当化しても仕方がない。確かに、「ドブネズミの美しさ」はあるだろう。「ドブネズミは不潔でキタナイ」とする一般的な律だけに束縛される必要はない。しかし、「ドブネズミは美しい」とする律とは何か。その一般的には理解されない律は一般的な律を否定するだけでは実現しない。パラダイスを目指す優等生の律だけが全てではないが、それを否定するだけの不良学生は単なる負け犬だ。優等生の律を批判するなら、それに優る不良学生独自の律を生きなければならぬ。それが律の超克に他ならない。獅子は駱駝が背負い続ける律を超える「高次の律」を求める。