律の超克としての「三態の変化」(5)
感覚が狂っているのかもしれない。労働して賃金が支払われる。当然のことだ。労働して賃金未払いとなれば労働基準法違反となる。労働力は商品。商品には対価が支払われる。当然のことだ。しかし、この当然のことに違和感がある。因みに、かつて「打撃の神様」と称された川上哲治の伝記の中に、熊本工業高校の選手として大活躍して職業野球の巨人軍に入団を求められた際、若き川上選手は大いに憤慨したというエピソードがあった。今ならプロにスカウトされることは大きな喜びであるのに、どうして憤慨したのか。当時の選手の感覚では野球は神聖なものであり、それを職業にすること、すなわち金儲けの道具にすることは冒瀆だったからだ。野球選手は商品ではない。商品などにしてはならない。殊に学生野球はそうであるべきなのに、今やプロ野球のための予備校と化している。学生野球の指導者にしても、優秀な選手がプロで活躍するために無理をさせないことが暗黙の了解となっている。商品は大切にしなければならない。商品価値は対価の多寡によって決められる。年俸が高額であるほど野球選手としての商品価値は高くなる。そこには明確な律がある。資本主義の律だ。プロ野球選手に限らず、現代社会では殆どの人がその律の力の下で生活している。正に駱駝のように自らの商品価値を背負っている。そして、商品価値のなくなったモノは容赦なく廃棄される。もとよりそうした律の支配に反抗する獅子がいないわけではない。されど、獅子の反抗は如何なる実を結ぶのか。人は律なしでは生きられない。そもそも存在していること自体に律の力が働いている。あらゆるイキモノには自然の根源的な律が貫いている。人も例外ではないが、水平の次元で生活する律とは別に、それを超克する「垂直の律」を渇望せずにはいられない。この感覚はやはり狂っているのだろうか。