補助輪の幻(4)
かつて或る子供が「どうして人を殺してはいけないのか」と問うた時、大人たちは周章狼狽した。上手く答えられなかったからだ。常識的には法律を持ち出すのが手っ取り早いが、「法律で禁じられているから」とは言えない。実際、法律に禁止条項はない。刑法第199条には「人を殺した者は、死刑又は無期若しくは五年以上の拘禁刑に処する」と記されているだけだ。これは殺人に限らず、あらゆる犯罪に言えることで、法律は「こういう罪を犯したら、こういう罰に処せられる」と規定するものにすぎない。ただし、犯罪の禁止は当然であり、それは自明の前提として法律に含まれている、と考えることはできる。すなわち、刑法第199条は「(人を殺すのはいけないことだが)人を殺した者は――」と読まれるべきだろう。自明のことは省略しても構わない。しかし、たとい犯罪の禁止が暗黙の前提だとしても、先の子供の問いに対して法律を答えにすることにはやはり割り切れない思いが残る。「法律で罰せられるから人を殺してはいけない」という答えは論理的だが深みがない。目に見えない大切なコトが目に見えるモノで単純に割り切られてしまった薄っぺらな感じがする。法律は目に見える問題を処理する手段だ。勿論、それは有効な手段であり、罪と罰を明確に規定することは必要だと思われる。しかし、究極的な問題はその必要を超えている。では、究極的な問題とは何か。誤解を恐れずに言えば、それは「神の国」の実現に他ならない。人が日常的に生活している水平の次元において法律は不可欠だが、「神の国」が待ち望まれる垂直の次元では不要になる。これが狂人の戯言としか解されないことは重々承知している。我々は人であって神ではないのだから「神の国」など関係ない。一般的には皆そう考える。「神の国」はあの世にあるものであって、この世では「地の国」(水平の次元)での幸福だけを問題にする。されど、私はこの健全な常識に挑みたい。そして、「神の国」をこの世に実現せんとする狂人たちの精神を継承したい。