曖昧な境界 | 新・ユートピア数歩手前からの便り

曖昧な境界

問題を単純化して言えば、カイラクはゾーエーの充足に、ケラクはビオスの充実に、それぞれ基づいている。ただし、ゾーエーとビオスを二元論的に考えることはできないので、どうしてもカイラクの同心円状にケラクを想定することになる。ゾーエーもビオスもイノチであり、カイラクもケラクも生の輝きであることに違いはない。その境界は何か。空腹を満たすことは明らかにカイラクだが、単なる食欲を超える美食の欲望を満たすことがケラクなのか。余談ながら、『晩酌の流儀』という人気ドラマがあるが、主人公の女性は最高の晩酌を楽しむためにストイックな生活をしている。どんなに美味しそうなものが目の前にあっても間食は控え、勤務後に汗を流して晩酌に備える。日常生活の一切は晩酌の一点に収斂していく。この女性の晩酌の至福は果たしてケラクなのか。質素な生活から贅沢な生活へ。ただ生きて在るギリギリの生活から生きていることを楽しむ余裕のある生活へ。かつて私は後者にケラクがあると思っていたが、今は違う。一口にゾーエーの充足と言っても階層がある。質素な充足もあれば、贅沢な充足もある。しかし、どちらもカイラクの閾を超えるものではない。貧乏人の狭いながらも楽しい我が家の幸福も、金持の豪邸に住む幸福も、共にカイラクだ。尤も、贅沢な充足は必ずしも金で買えるようなものではない。大金を費やしただけの生活は所謂「成金趣味」であり、真の贅沢には程遠いものだ。とは言え、魯山人のような粋人の生活に真の贅沢があるとしても、やはりそれもカイラクだと思われる。率直に言って、贅沢で粋な生活にケラクがあると思ってきたが、それは畢竟「洗練されたカイラク」にすぎない。ケラクは生活を超越している。カイラクとは質的に全く異なるものの、ケラクの本質は未だよくわからない。