通俗的エピキュリアンの主張 | 新・ユートピア数歩手前からの便り

通俗的エピキュリアンの主張

「皆さん、皆さんは毎日々々何の為に働いているのですか。私達はこの世に働きに来たと皆云います。馬鹿な人間は。そしてずるい人間も云います。そしてその人はどうかと云うと自分は働きたくないのです。働かないで、女とでも馬鹿騒ぎがしたいのです。しかし自分が働かない為には他人を働かさねばならない。だから働け働けと云うのです。しかし皆さん。我々は働いても、矢張り死ぬのです。いくら苦しんだからと云って、何にも御利益はないのです。正直なことを云うと、我々はよろこんで生きてゆかねば損なのです。どうせ死ぬのです。つまらぬことをくよくよ思っていても、どうせ死ぬのです。いくら汗水たらして働いてもどうせ死ぬのです。死んでしまえばそれでおしまいです。死んでから極楽があるとか、地獄があるとか云うのは噓つきが、皆さんを騙して働かす為です。騙されてはいけません。快楽こそ我々に忠実なものです。……愉快に暮らすと云うことが、我々の与えられた唯一のよろこびです。人々は快楽を卑しみすぎています。……この世に生きている間は短いのです。出来るだけ楽しまないとあとで後悔しても駄目です。思い出してよろこべる種を若いうちに沢山おつくりなさい」

 

これは実篤の『第三隠者の運命』という小説に登場する或る男の演説だが、「生命尊重」の世界では大半の人がその主張に賛同するに違いない。言い換えれば、「生命尊重以上の価値」が失われた世界では快楽以外に人生の意味はない。人生は楽しむためにある。苦しむためではない。当然であり、極めて健全な人生観であろう。できるだけ大きな快楽を得るためには健康でなければならない。健康第一。健康を害してまで無理をする必要など全くない。ましてや「イノチを懸ける」ほどのことは皆無だ。それにも拘らず、「生命尊重」の水平的快楽では「本当」に生きる充実が得られない人たちがいる。単なる異常者にすぎないのだろうか。「生命尊重」の水平的快楽と「生命尊重以上の価値」を求める垂直的快楽。私は以前に、前者をカイラク、後者をケラクと区別したが、二つの快楽の間の溝は深まるばかりだ。たとい誰にも支持されなくても、ケラク追求の物語は続く。