ナディアの懸念(3)
人生は楽しむためではなく、苦しむためにある。その苦しみに耐え抜いてこそ人としての成長があり、それは神の祝福に値する。そのように説く聖職者をラファルグは資本家階級の倫理を支持するものだと揶揄している。確かに、そういう面はあるに違いない。その倫理の御蔭で、人は苦しい労働に耐えることができる。勤労もしくは忍従の倫理。しかし、それでは余りにも資本家に都合が良すぎる。そもそも資本家が労働者を苦しめて自分は楽しんでいるとすれば、その楽しみは「人生は苦しむためにある」という倫理に反している。また労働者にしても、その苦しみの先に昇進や昇給の楽しみがなければ到底頑張れないだろう。とすれば、「人生は苦しむためにある」という倫理はやはり不自然だと言わざるを得ない。だから、ラファルグもブラックも「人生は楽しむためにある」という自然に忠実な生き方を勧めている。そして、苦しみに満ちた労働は直ちにやめるべきだという結論に至る。されど、労働の廃絶もさることながら、苦しむことの拒絶は果たして「人生を楽しむこと」に繋がるだろうか。言うまでもなく、楽しいことと楽なことは違う。楽なことばかりしていても楽しくない。苦あれば楽あり、楽あれば苦あり。労働者を酷使して楽をしている資本家は「本当」に人生を楽しんでいるか。むしろ、過酷な労働に耐え抜いた達成感や充実感のある人生の方が楽しいのではないか。さりとて私は奴隷の如き労働者の方が人生を楽しんでいると言うつもりはない。ここで留意すべきは「主人と奴隷の弁証法」だ。奴隷は奴隷であることに安住すべきではなく、自ら奴隷であることを否定しなければならない。では、奴隷は自己否定して何になるべきか。当然、主人ではない。古き主人を倒して自ら新しき主人なれば苦しい労働から解放されて楽になるかもしれないが、それでは主人と奴隷が入れ替わったにすぎず、何ら楽しくない。主人が資本家で奴隷が労働者であるなら、その関係そのもののディコンストラクションが要請される。すなわち、それは「主人-資本家」の廃棄であると同時に「奴隷-労働者」の廃棄でもある。その意味での「労働廃絶」なら少しは理解されるかもしれない。それはナディアが懸念するような怠け者になることではない。