純粋白色批判(10) | 新・ユートピア数歩手前からの便り

純粋白色批判(10)

絶対的な純白による浄化は一つ間違えば「大審問官の論理」に堕す。勿論、純白が大審問官の如き絶対者になることはない。真の絶対は絶対者にはならぬ。「絶対者-相対者」という対の次元を超越するのが真の絶-対だ。もし純白が絶対者になるとすれば、それは絶対の次元から転落して相対的な白色に転化したことを意味する。それは本末転倒だ。しかし、純白の実定化は避けられない。既に純白という言葉自体が実定化だ。厳密には純白について語ることなどできず沈黙するしかない。それにも拘らず、敢えて純白を批判するのは何故か。水平革命の限界を見極めるためだ。純白先生同様、私も「世界の水平化」を切望している。それは「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という賢治の信念にも通じている。ただし、個人の幸福は全体の幸福に包摂されるようなものではない。言い換えれば、全体の幸福は滅私奉公によっては実現しない。また、個人の幸福の集積が全体の幸福になるのでもない。二つの幸福は質的に異なりながらも相即している。「世界の水平化」は個々それぞれの幸福を求めるが、否応なく個人主義に閉塞していく危険性を孕んでいる。純白の浄化はそれぞれの色がそれぞれの在り方で輝く相対主義の徹底をもたらす。それが「世界の水平化」であり、或る特定の色が絶対化することのない世界を実現する。されど、人はそうした個人主義=相対主義の徹底に耐えられるだろうか。それは一つのニヒリズムではないか。人には絶対的なものへの渇望がある。絶対的なものとの関係なくして生きていけない。それ故、相対的な様々な色を超越する絶対的な純白を絶対者(絶対的な色)と見做してしまう。先述したように、それは本末転倒であり、純白の浄化を台無しにするものだ。純白による世界の浄化、すなわち「世界の水平化」は我々の人生にとって不可欠ではあるものの、それ自体では完結しない。浄化は聖化に接続する。聖化のドラマを通じて、単色の人は複色の人間の次元を切り拓いていく。