純粋白色批判(7) | 新・ユートピア数歩手前からの便り

純粋白色批判(7)

純白を批判してきたが、その理想は根強い。容易に死に至らない。「汚れることで美しくなる」などと偉そうなことを言っても、純白以上の美を生み出すことは至難の業だ。むしろ、「汚れること」に妥協して世界の腐敗を容認する結果になりかねない。実際、醜悪な世界を浄化できるのは純白の力であろう。「汚れが取れる」と「純白になる」は殆ど同じ意味だ。勿論、色は汚れではない。新品の赤いシャツは全く汚れていない。しかし、色は常に汚れに転化する危険性を孕んでいる。あるいは、汚れは色(汚い色)だと言ってもいい。自分の好きな色は汚れではないが、その色が嫌いな人にとっては汚れに等しくなる。白色も例外ではない。色である以上、白色も汚れになる可能性がある。例えば、お気に入りの赤いシャツにチョークで落書きされれば、その白色は汚れだ。ただし、純白は違う。純白は色を超越しているので、決して汚れにはならない。純白は常に汚れと化した色を浄化する。あらゆる社会の改革に純白の力は不可欠だ。それにも拘らず、私は純白の死を求める。何故か。社会の浄化もさることながら、究極的には社会の聖化が要請されるからだ。聖化のドラマは純白の死から始まる。