純粋白色批判(6) | 新・ユートピア数歩手前からの便り

純粋白色批判(6)

同じプラモデルを二つ買う奇特な人がいる。一つは自分で組み立て、もう一つは保存用だと言う。「なんて無駄なことを!」と思うが、同時にその心情も何となく理解できる。大切なモノを「純真無垢」な状態で保存しておきたいという心情。モノは使用すれば必ず汚れる。汚さないためには未使用でなければならない。因みに、これは民藝のディレンマにも通じている。民藝は「用の美」を尊び、モノは生活の中で使用されてこそ美しいとされる。ところが、やがて高価な「民芸品」として重宝されるようになると、気軽に使われる食器ではなくなってしまう。下手物から美術品へ。この「発展」は民藝の理念としては堕落であろう。高名な民藝作家の高価な工芸品を普段の食卓で下手物同然に扱ってこそ「用の美」は活きる。更に言えば、民藝の美は汚れることで美しくなる。されど「汚れることで美しくなる」という逆説的な真理に生きることは容易ではない。骨董の美にしても日常生活とは断絶している。美と生活は相容れない。従って、先述の奇特な人のように、モノの美を維持しようとすれば、未使用のモノがもう一つ必要になる。使用しなければ美は現実化しないが、使用と同時に美は崩れ始める。使用するモノと保存するモノ。二つを所有したいという欲望は当然だと言える。ただし、その当然はイキモノには妥当しない。身体は一つしかなく、保存用のもう一つの身体を持つことなど不可能だ。美しい身体の保存を望むなら、その瞬間に夭折するしかない。実際、それを実行するナルシストもいるに違いない。それは言わば純白の理想に殉じることに等しい。そうした夭折の美学も一つの生き方ではあるが、私は純白の死から始まる生き方を求める。生きれば汚れるが、その果てにある美を見極めたい。