故郷としてのアルカディア・異郷としてのユートピア(7) | 新・ユートピア数歩手前からの便り

故郷としてのアルカディア・異郷としてのユートピア(7)

型破りの人生に憧れるとしても、自らの元型を知ることが先決問題であろう。元型を無視した人生は形無しになる。では、如何にして元型を知るか。学問的には二つの道が考えられる。精神分析学と民俗学だ。三島由紀夫はそれらに「奥底にあるものをつかみ出す」思考方法を見出している。我々の精神や生活の奥底にあるもの、それが元型だと言ってもいい。元型は「私」の生や存在の在り方を規定する。DNAの情報(ゲノム)なども元型に含まれるだろう。言わば「私」の設計図であり、それに基づく場所が故郷だ。では、故郷に「本当」の生はあるのか。元型がモノの本来のカタチであるならば、当然そう考えることもできる。あらゆるモノは元型が先にあって存在する。人工的なモノなら、職人が元型を構想して、それに基づいて制作される。自然のイキモノなら、神が元型を設定していることになる。周知のように、サルトルはそのような神を否定して「実存は本質に先立つ」と主張したが、私は本質と元型を区別したい。ただし、人以外のイキモノにそのような区別はない。バラの元型、タコの元型、キリンの元型はそれぞれの本質となっている。神話的に言えば、人も始源の楽園においては神の設定した元型を自らの本質として存在していた。しかし、知恵の樹の実を食したことで元型をそのまま本質とすることができなくなり、以後ずっと元型からズレ続けている。とは言え、神が設定したかどうかは別として、「人はかくあるべし」という元型はある。実存は本質に先立つが、元型は実存に先立っている。つまり、人の実存は元型と本質との間にあり、元型からズレながら本質をつくっているのだ。元型の故郷から本質の花咲く異郷へ。故郷に「本当」の生を求める道もさることながら、私は敢えて異郷に「本当」の生を摸索する。