競争と居場所 | 新・ユートピア数歩手前からの便り

競争と居場所

サッカーのW杯が始まった。暫く競争の熱狂が巷を賑わせるだろう。サッカーに限らず、最近の私はスポーツに熱狂することが殆どなくなったが、それでも日本チームが活躍すれば嬉しく思う。何にせよ、熱狂できるものがあるのはいいことだ。生きる意味に繋がる。勿論、サッカーなどなくても人は生きていける。むしろ、過度の熱狂は危険だ。所詮、サッカーは不要不急の娯楽スポーツにすぎないのに、勝利した相手チームもしくは敗北した自国チームに対する憎悪が募って殺人事件が起きたりする。そんな無益な競争に血道を上げることなく、皆仲良く平穏無事に暮らせればそれでいい。そもそも殊更に意味を問う以前に人は生かされている。そうした根源的生としてのゾーエーこそ人本来の居場所ではないか。ところが、人はゾーエーの場所に留まることができない。常にゾーエーを超える生の次元、すなわちビオスに生きる意味を求める。ただ生きて在るだけでは意味がない。人はパンのみにて生くるに非ず。パン(肉体の糧)によってゾーエーを後生大事に維持するだけの人生などつまらない。そこで人はパン以上の何か(魂の糧)によってビオスを充実させる場所を探し求める。それは差し当たって競争の場所となる。端的に、競争がビオスを充実させると言ってもいい。ゾーエーを充足するための競争(食うための生存競争)もさることながら、ビオスを充実させる競争が人を虜にする。他人より少しでも良い場所へ。W杯では優勝という「唯一の場所」を目指して各国の代表が鎬を削る。それを応援するそれぞれの国民も共に闘う。束の間の祝祭とは言え、そこには国民が一つになる場所がある。その競争の魔力は「競争のない社会」を忘却の彼方に追いやってしまう。問題は祭りの後にやって来る。