逃げ場所と居場所
『逃げるは恥だが役に立つ』という人気ドラマがあったが、逃げる場所があるのは良いことだ。救いになる。天災にせよ、人災にせよ、災いは必ずやって来る。その時、避難所の有無が生死を分ける。しかし、避難所は一時的な逃げ場所ではあっても、日常的な居場所にはならない。フリースクールも然り。今の学校にどんな理不尽なことがあるのか、具体的にはよく知らない。親ガチャによる学力の格差、虐め、スクールカーストなどがよく問題にされるが、結局は過酷な競争が子供たちを苦しめているように思われる。フリースクールには基本的に競争はない。そこは競争から解放された場所だと言ってもいい。だから寛げる。居場所になる。しかし、世間はそんなに甘くない。現実社会では学校以上に熾烈な競争を余儀なくされるだろう。フリースクールで甘やかされた子供たちが厳しい現実社会で生きていけるのか。多くの人の懸念はそこにある。学歴を競う教育から逃げ、出世を競う会社から逃げ、「自分はオンリーワンだ」と嘯いて生きていく。そんな甘すぎる自己満足がいつまでも続くとは思えない。それでもフリースクールのような「競争のない社会」を理想とすることはできる。誰とも競争することのない「Love and Peace」の共同体。それが非現実的だとしても、競争社会の片隅に競争とは無縁の楽しみを見出すことは可能だ。例えば、ヴィム・ヴェンダースの描く『Perfect Days』のような生活。余談ながら、昨今の脱力系のドラマには「誰とも競争しないこと」を美徳とする傾向があるような気がする。「人生、そんなに頑張らなくていいんだよ。自分のペースでゆっくり楽しく生きればいいんだよ」――時代は明らかに優しさを強調し始めている。されど優しさを「競争のない社会」に求めていくことには違和感がある。もとより過酷な「競争からの解放」には共感するものの、それは単なる「競争からの逃避」であってはならない。少なくとも私にとって「競争からの解放」は競争の理想と対峙する理想、すなわち共生の理想を生み出すものだ。「競争のない社会」に共生の理想はない。