聖化のための覚書(10)
世俗化は正しい。他律的な支配者と化した神聖な神が死に、人は自律的な個人として生きる。しかし、自律の理想はやがて俗化してエゴイズムに堕していく。自己中心の世界に人が「本当」に生きる意味はない。そこで人は聖なるものとの関係を取り戻そうとする。世俗的な幸福を追求する水平の次元からそれを超越する垂直の次元へ。聖化のドラマのクライマックスは聖なるものとの新たな関係に見出される。もはや始源の聖なるものへの回帰(後向きの運動)はあり得ない。それは依然として大きな魅力ではあるが、私はあくまでも新たな関係の構築(前向きの運動)を求めたい。それは如何なる関係であろうか。二つの可能性が考えられる。同一化(identification)と参加(participation)だ。因みに、この二つは来日したティリッヒが仏教者と対話した際、仏教とキリスト教の対比として挙げたものだ。すなわち、仏教の悟りが聖なるものとの同一化(梵我一如)にあるとすれば、キリスト教の本質は神の聖なる働きに参加することにあるとティリッヒは言う。この対比の是非は別として(仏教者は納得しないだろう)、ティリッヒが重視しているのは人格性だと思われる。聖化のドラマに即して言えば、聖なるものとの新たな関係において個々人の人格性は維持されるか否か、ということだ。キルケゴールは「絶望が全く根こそぎにされた場合の自己の状態を表す定式」として「自己自身に関係し、自己自身であろうと欲することにおいて、自己は自己を措定した力のうちに透明に根拠をおいている」と述べているが、「自己を措定した力」を聖なるものとするならば、それに「透明に根拠をおく」とは如何なることか。ニルヴァーナにおいては自己が完全に消滅して融合してしまうのか。それとも『カラマーゾフの兄弟』のラストのように、天国(神の国)において我々は自己として再会できるのか。聖化のドラマに関する課題は尽きない。