聖化のための覚書(3)
生きていれば汚れる。汗をかく。垢もたまる。死ねば、もう汗も垢も出ない。しかし、死体がキレイなのは束の間であり、やがて腐敗が始まる。その過程は実に醜い。おぞましい。ただし、微生物に完全に分解され尽くして土に還れば、やっと「本当」の死に辿り着ける。もっと手っ取り早く火葬されて骨になる近道が今では一般的だが、そこでは誰もがキレイになる。善人も悪人もない。もはや生の意味を問われることはなくなり、皆キレイなモノになる。例外はない。
生はキタナイ。死はキレイ。「本当」にそうか。イマドキの若者は原口統三や岸上大作の生き方=死に方に関心などないかもしれないが、かつては「純粋に生きること」が熱心に求められた。その求め方は人それぞれながら、結局は死に最終的な答えを見出す場合が多い。純粋精神を維持するための死。余談ながら、或るテレビ番組を観ていたら、「傷つくのは生きたからだ」という高見順の言葉が紹介されていた。生きたから傷つく。傷つきたくなければ生きなければいい。それだけのことではないか。「純粋に生きること」の帰結が死というのは余りにも単純すぎる。単純だから純粋でキレイだとも言えるが、生きて、汚れて、傷ついて、ボロボロになったその先にあるキレイを私は求めたい。浄化によるキレイではなく、聖化によるキレイ。二十歳前でキレイな自死を選んだ原口統三の浄化はエチュードにすぎない。彼は「本当」に生き始める前に純粋と心中した。