人の有用性(6) | 新・ユートピア数歩手前からの便り

人の有用性(6)

かつて野球少年だった頃、私は速球に魅せられていた。誰よりも速い球を投げる。それが幼い私の夢となり、日本では「伝説の大投手」沢村栄治、アメリカでは「火の玉投手」ボブ・フェラー(Bob Feller)に憧れた。当時は未だスピードガンなるものは普及しておらず、客観的に(数値的に)速球を理解する術はなかった。それだからこそ私は、快速球、豪速球、剛速球の何れが最も「美しい速球」なのかという主体的な美学に憑かれたのかもしれない。ところが或る時、ピッチングマシンならどんなに速い球でも投げられることを知った。人の投げられる速球の限界は時速170キロ程度だと言われているが、マシンなら200キロでも300キロでも投げられる。私は愕然とした。そして、絶望した。もとより非力な私には160キロはおろか、140キロさえ投げられたかどうか。ピッチングマシンの高い能力に絶望させられる以前に、私は自らの凡庸さに絶望していた。それが真実だが、マシンの存在が私のルサンチマンを正当化したとも言える。すなわち、160キロの速球を投げる大谷選手もマシンには敵わないというルサンチマンだ。勿論、野球は単なる力比べではない。投球術だけを考えても、緩急や変化球を交えた配球、コースの投げ分けなど、打者との駆け引きに見所がある。速球一本の力勝負も魅力的だが、特に日本の野球ではインサイドワークの勝負がより重視されるだろう。しかし、その頭脳戦さえ、将来的にはAIを搭載したピッチングマシンに人は勝てなくなるに違いない。これは殆どSFの話になるが、野球に限らず、あらゆるプロスポーツの選手は高性能のアンドロイドに取って代わられるのでないか。その方がよりスリリングなゲームを楽しめるからだ。こうしてスポーツの世界でも、人の選手(player)としての有用性は失われていく。人は観客席で超人的なプレイをするアンドロイドたちの活躍を楽しめばいいのだ。有用性は全て機械に任せ、人は機械が演出する娯楽を享受する。果たして、そこに想定されるパラダイスに人の「本当」の生活はあるか。言い換えれば、人の有用性が失われたパラダイスで人が「本当」に為すべきことは何か。