人の有用性(4) | 新・ユートピア数歩手前からの便り

人の有用性(4)

大谷選手の輝かしい才能にケチをつけるつもりなど全くないが、広い世界の何処かには大谷選手以上の才能が眠っているに違いない。しかし、その才能も野球とは無縁の地では覚醒しない。単なる独活の大木だ。尤も、野球とは別の分野で活かされる可能性はあるが、素晴らしい才能の種子はそれに相応しい土壌があって初めて発芽して開花する。有用性は才能が活かされる場所と密接に関係しているが故に、人はそのような場所を探し求める。それが一般的には就職に結実する。すなわち、学校で(独学でもいいが)自分の才能(スキル)に磨きをかけ、然るべき資格を取得するなどして、それを活かせる職に就く。それが幸福な生活に通じることが期待される。勿論、収入という要素も無視できない。因みにモンゴル相撲よりも日本の大相撲という場所の方が自分の才能を活かせるという選択は当然あり得る。露骨に言えば、大相撲の方が多く稼げるという選択だ。実際、人の有用性は収入の多寡で評価されることが通例となっている。金持のバカ息子は論外だが、総じて高所得者は有用性が高いと見做される。しかし、「本当」にそうか。むしろ、お金を稼ぐ才能と有用性は乖離しているのではないか。私の頭が固いだけかもしれないが、例えば投資の才能と有用性は一直線に結びつかない。確かに、お金がたくさんあればあるほど、それだけ可能性が広がる。私腹を肥やすだけの目的は論外だとしても、寄付行為や投資で社会貢献できる。困っている人を助ける力がお金にあるのは間違いない。しかし、その場合、有用なのはお金であって人ではない。有用なお金を稼ぐ道具としての才能は果たして人の有用性だと言えるのか。大谷選手も莫大なお金を稼いでいるようだが、お金を稼ぐ道具として野球をしているわけではないだろう。もとよりプロである以上、お金でその有用性が評価されるのは当然だが、大谷選手の人としての有用性はあくまでも野球をすることを通じて発揮される。有用性に高値が付くことと有用性そのものとは区別すべきだ。どうも論点が錯綜して上手く表現できないが、私の主張は「有用性が高く売れる場所に惑わされるな」という一言に尽きる。今はキレイゴトにしか聞こえないだろうが、人の「本当」の有用性はお金では評価できないと私は考える。大谷選手は明らかに高価な商品だが、私は商品の次元を超えていきたい。それはモノの有用性の超越でもある。