優雅な生活
品質の良いモノは高価で、悪いモノは安価だ。品質の悪いモノを高価で売りつければ詐欺罪で罰せられる。騙す方が悪いのは当然だが、騙される方にも罪がある。それは高価という基準だけで品質を判断した罪だ。高価とは一般的に「値段が高いこと」を意味するが、それは必ずしもモノの「本当の価値」と一致するとは限らない。更に言えば、「本当の価値」は本来数値化(可視化)できないものだ。人の評価も然り。例えば、学生の「本当の価値」は試験の点数や偏差値などでは判断できない。「本当の価値」の数値化には無理がある。とは言え、現実には数値化による評価に依存するしかないだろう。凡人には数値化なしの評価は至難の業だからだ。余談ながら、最近、魯山人や白洲正子に関するテレビ番組が目立つが、その理由は何か。おそらく、そこには「本当の価値」を見極める目、言わば目に見えないものを見る力に対する人々の憧憬があるからだと思われる。しかし、いくら憧れても、誰もが魯山人や白洲正子のような目を持てるわけではない。結局、殆どの人は「ナントカ鑑定団」に出てくるような凡百の鑑定士の目に頼り、そこで数値化された価値(値段)を信用することになる。そして、魯山人の器につけられた値段に驚く。もとより私はその鑑定結果を否定するつもりはない。むしろ、鑑定=数値化そのものは正しいと信じる。ただ、「本当の価値」を数値化した瞬間、何かが変質したと思わざるを得ない。魯山人の器は値段がつけられると同時に商品と化す。高価な商品の価値は揺るがない。しかし、その価値は「本当の価値」からズレていく。金持は高価なモノを買い漁り、それらに囲まれた優雅な生活をする。たといそれらがホンモノであったとしても、そこに見出されるのは往々にして成金趣味の薄っぺらな生活にすぎない。何かが根源的に異なる。