場所を充実させる場の力(10)
国破れて山河在り。しかし、残るのは自然だけではない。社会も残る。そして、荒廃した社会で民衆はしたたかに生き残る。戦後の日本人も然り。日本が負けたのは残念だが、とにかく戦争が終わったことを喜びたい。重要なのは自分たちの生活だ。民衆は幸福な生活に「最適な場所」を求める。アメリカに負けても、生活が豊かになれば結構なことではないか。逆に日本が勝っても、生活が苦しいままなら意味がない。幸い、戦後の日本は高度経済成長を経て曲がりなりにも豊かな場所になった。果たして、この幸いな現実は「場所の充実」を意味するか。私は甚だ疑問に思う。むしろ、戦後の現実に亡国を見出す。三谷隆正の次の言葉が思い出される。
そもそも亡国とは何か。亡国とは必ずしも其国の成員たりし衆多の個が個としての生活を奪われて亡び失せて終うことではない。民みなが亡び失せることと亡国とは同じことではない。民はみな無事であって、その個的生活は各個的にも社会的協同的にも安全に確保されつつ、なおかつ亡国は亡国である。亡国とはその歴史的現実的主体性を失える国である。(三谷隆正『法と国家』)
日本がその「歴史的現実的主体性」を失った現実に絶望した人は腹を切った。民衆はそのハラキリを鼻で嗤って生き抜くことを選んだ。結果、「無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない経済大国」を実現した。かくして戦後の日本は見事に復興した。実に立派なものだ。そうした民衆のしたたかさに水平的充実がある。祖国の荒廃に胸を痛める難民もすぐに気持を切り替えて外国に安住の地を求めるに違いない。国が亡んでも生活の場所は残る。身捨つるほどの祖国はない。亡国の上に今の経済的繁栄は築かれている。それでいいのか。人生は水平的充実に尽きるものなのか。相も変らぬ問いが脳裡をよぎる。水平的充実が不可欠であることは論を俟たない。しかし、生活の安定を核とする水平的充実では場所に「本当」の充実は生まれない。リラダン曰く、「生活?そんなものは召使どもに任せておけ。」これは民衆に対する暴言であろうか。人生には生活より重要な何かがある。場の力は場所に垂直的充実を要請する。今の私では未だそれを語り尽くせない。