場所を充実させる場の力(5)
難民は「最適の場所」で生活するために「ふるさと」を棄てたように見える。確かに、祖国を去ることを余儀なくされたのは事実だ。荒廃した祖国はもはや「ふるさと」ではない。しかし、それでも「ふるさと」を棄てたわけではない。棄てられるわけがない。戦火のない、抑圧のない「最適の場所」を見つけられたとしても、そこに「ふるさと」という場の力が働かなければ安住の地にはならない。以前にも述べたように、被災地からの避難者についても同様のことが言える。変わり果てた故郷はかつての故郷ではない。しかし、「ふるさと」が死んだわけではない。当面は瀕死の故郷を再び快く生活できる「最適の場所」へと復興することが課題になるが、それだけでは「ふるさと」は甦らない。「最適の場所」の復興と「ふるさと」の再生は質的に全く異なっている。また、已む無く故郷から遠く離れた場所への移住を余儀なくされ、そこに新たな「最適の場所」を創る決心をした場合でも、同様の問題に直面するに違いない。これは「立派な建物としてのハウスを新築しても、そこが魂の安らぐホームになるとは限らない」という問題に通底している。とは言え、身の安全や経済的豊かさといった水平的充実は無視できない。それこそが最重要課題だという見解もあり得る。ハウスなくしてホームなし。余談ながら、「1万キロに人生かけて:中国ドライバー ロシアへ」と題する『NHKスペシャル』を観た。それは過酷な条件での労働を余儀なくされている中国の長距離トラック運転手の現実を報じるものだ。欧米による経済制裁で物不足に陥っているロシア。そこにビジネスチャンスがあると見た中国の資本家はロシアへの物流で大儲けを企む。言うまでもなく、その大儲けを可能にするのは常に危険と背中合わせでトラックを運転し続けている末端の労働者たちだ。肥え太る豊かな資本家と瘦せ細る貧しき労働者。この相も変らぬ構図に囚われて、労働者は一向に貧しさから脱け出せない。そんな労働者にとっては安楽に生活できる「最適の場所」こそが問題であろう。「ふるさと」など眼中にない。従って、先の構図を粉砕する「世界の水平化」が切実に待ち望まれる。実際、大金が稼げるなら労働者は何処にだって行くだろう。多少危険な場所でも意に介さない。もとより出稼ぎの場所は何処も「最適の場所」には程遠いものの、「ふるさと」が彼等にとって不要不急の場所であることに変わりはない。しかし、「本当」にそうか。労働者の厳しい「本当」に直面して自信が揺らぐが、「ふるさと」は水平の次元では不要不急でも垂直の次元では究極的な意味を持つ。私はやはりそう思わずにはいられない。甘いだろうか。