場所を充実させる場の力
「移民たちのヨーロッパ:寛容と排斥の80年」と題する先日の『映像の世紀バタフライエフェクト』を観て、複雑な思いに駆られた。様々な理由で難民は生まれる。主に政権の腐敗堕落によるものだろうが、民衆は已む無く祖国という場所を棄てざるを得なかった。被災地からの避難者のように。そうした生活困窮者を積極的に受け容れてきたヨーロッパ諸国の理想主義は実に尊い。心からそう思う。しかし、受容した移民が増え続け、今やその国の大半を占めようとしている。その現実に直面して、ヨーロッパ各国では移民を排除する動きが強まっていると言う。寛容の理想主義と排斥の現実主義。この二つに引き裂かれるのは決してヨーロッパだけの問題ではない。世界全体の問題だ。日本でもクルド人難民や福島からの避難者を差別するという問題が生じている。もとより難民と避難者を同列に扱うべきではないが、どちらも「余所者」であることに変わりはない。「余所者」でも、困っているなら助けるのは当然のことだ。誰しも善きサマリア人のように行動すべきであり、排外主義は明らかに水平の「本当」に反している。とは言え、「余所者」の異化にも水平の「本当」がある。「余所者」の同化と異化が難民問題を複雑にしている事実は否めない。生命の危機に瀕している「余所者」の受容は当然だとしても、それは「余所者」の同化まで要請するものだろうか。一般的に難民は安全かつ快適に生活できる場所を求めて荒廃した祖国を出たのであって、受け容れてくれた国に同化するつもりはない。勿論、その新たな場所で生活するためには、その場所の言葉や文化の学習が必要になる。しかし、それはその場所への同化ではない。例えば、いくら日本語がペラペラで日本での生活に全く支障がなくなっても、それは日本人になることではない。ましてや日本への同化を拒絶して、移民の祖国での生活をそのまま日本で再現しようとするならば、それは一種の文化的侵略と見做されても仕方がない。これは立場を逆転させて、多くの日本人がアメリカに移住した場合でも同様のことが言える。「移民の国」と称されるアメリカでも一民族がその固有の文化で目立ち過ぎることには抵抗を示す。私は決して移民に同化を強要するつもりはないが、「日本は日本人が生活する場所だ」とは思っている。果たして、これはナショナリストの偏見にすぎないのだろうか。私もまた「余所者」を排除する狭隘な差別者なのか。そうではない理路への思耕を試みたい。