誰が本当に生きているのか(10)
『3か月でマスターする人体』というテレビ番組を観ていたら、睡眠を専門とする先生が大略「イキモノにとっては睡眠が主であって覚醒は従です」と語っていた。目から鱗が落ちる気がした。イキモノは眠るために生きている!ならば覚醒は何のためにあるのか。言うまでもなく、食物の確保のためだ。イキモノは食べなければ生きていけない。だから、目覚めている間は動いて、食物を獲得して、イノチを維持していく。そして、満腹になれば、寝る。その繰り返し。イキモノの生は単純明快。勿論、いつも食物が確保できるとは限らず、空腹を抱えて苦しむこともあるだろう。しかし、基本的には「食って寝る」、生きるとはその単純な繰り返しに尽きる。それ以上の「本当」はない。ところが、人はそうしたイキモノの「本当」を踏み越えていく。「食って寝る」という剥き出しの生(ゾーエー)の循環だけでは満たされず、それ以上の生(ビオス)の次元を切り拓く。とは言え、「睡眠が主で覚醒は従」ということに即せば、ゾーエーが「実」でビオスは「虚」ということになる。やはり大いなるゾーエーの円環の充「実」にこそ人生の「本当」を見出すべきであって、ビオスは人生の「虚妄」とすべきなのか。実際、ゾーエーなくしてビオスはあり得ないことを考えれば、ビオスはせいぜいゾーエーの充実後の娯楽程度に考えるのが無難かもしれない。しかし、たといビオスが巨大なゾーエーの氷山の一角だとしても、私は敢えてその一角に「本当」を創り出したい。それは如何なるドラマを生み出すのか。ゾーエーの円環上にもドラマは展開するが、それを包摂するビオスのドラマが望まれる。水平のドラマを包摂する垂直のドラマ。その基本構図はキルケゴールの実存弁証法に他ならない。