誰が本当に生きているのか(2)
自然に生きようとすることが不自然なように、本当に生きようとすることは本当ではない。本当に生きていないから本当に生きようとするのであって、本当に生きている人は「本当に生きること」など意識しないだろう。しかし、この道理に従えば、本当に生 きているのは無垢な子供だけになってしまう。それは剥き出しの生(ゾーエー)に忠実であることに他ならない。子供は所構わず泣き喚く。全く自由奔放だ。その「自由」に憧れたりもするが、それはやがて我儘と見做されるようになる。実際、傍若無人な振る舞いが許容されるのは赤ん坊の時代に限られるのであって、それが過ぎれば厳しい躾の時代がやって来る。ルソーが言うように、人は生まれながらに自由かもしれないが、至る所で鉄鎖に繋がれているのも事実だ。また鉄鎖がなければ、アマラやカマラのようになってしまう。ゾーエーから生まれる欲望のままに生きることはイキモノの「本当」かもしれないが、人の「本当」ではない。人として為すべきこと、為すべきではないこと。Sollenの鉄鎖がケダモノを人にすると言ってもいい。では、鉄鎖に繋がれた品行方正な人が本当に生きているのか。家庭では厳格に躾けられ、学校では校則に縛られ、社会に出れば様々な法律に従うことが要求される。そこに「本当の生」はあるのか。幸福な生活はあるかもしれない。しかし、それが「本当の生」なのか。