誰が本当に生きているのか
プラトンの「詩人追放論」は大衆抹殺論と相即するものとして理解すべきだ。しかし、これは常識に反している。プラトンの時代とは隔世の感のある現代では、詩人と大衆は対極に位置するという理解が一般的だからだ。聖なる詩人と俗なる大衆。詩人追放と大衆抹殺は相 即ではなく対立するものと理解するのが常識だろう。詩人は大衆を軽蔑し、大衆は詩人を無視する。もとより私はここでプラトンの「詩人追放論」を真正面から論じるつもりはない。そのつもりがあっても、できない。プラトンが問題にしている詩人の理解は一筋縄ではいかないし、そもそも浅学の私にそれを論じるだけの学識がないからだ。ただ私は詩人と大衆の関係について改めて考えてみたいと思うにすぎない。先に両者の関係を対立と理解するのが常識だと述べたが、実際は大衆が好む詩人もいる。詩人を広く芸術家と解するならば、大衆を楽しませ勇気づける娯楽作品をつくる大衆芸術家だ。果たして、この大衆芸術家が「詩人追放論」の対象なのだろうか。もしそうなら、娯楽に現を抜かす大衆は「本当に生きること」を忘却した存在になる。そして、そうした大衆の堕落した生活を批判する詩人こそが「本当に生きること」を自覚した存在になる。本当にそうか。十五年前に津波に呑み込まれた無数の人たちは本当に生きていなかったのか。