補足:マッサンの選択
平成二十六年(2014年)に放送された朝ドラ『マッサン』の再放送を観ている。これは造り酒屋の跡取り息子でありながらウイスキーづくりに魅せられた男(ニッカウヰスキーの創業者・竹鶴政孝氏がモデル)のドラマだ。尤も、ドラマの中心はその男(マッサンと呼ばれる)がウイスキーづくりを学ぶために単身乗り込んだスコットランドで結ばれた女性との国を超えた夫婦愛だが、私にはずっと「どうしてウイスキーなのか」という疑念があった。実際、スコットランドのウイスキー職人からは「日本人にウイスキーはつくれない」とバカにされるし、日本人からは「こんな煙臭い酒が飲めるか!ウイスキーは日本人の口に合わない」と言われる始末だ。せっかく日本に生まれ、しかも造り酒屋の跡取りという境遇で育ったのだから、ウイスキーではなく「最高の日本酒」に情熱を注ぐべきではないか。とは言え、ウイスキーに魅せられてしまったのだから仕様がない。日本人だから日本酒を最高とすべきだという「論理」は偏狭すぎる。日本人でありながらフランス料理の頂点を極めたいという情熱と同様、異文化の「論理」で勝負する人がいてもおかしくはない。余談ながら、「世界のオザワ」と称される小澤征爾氏もフランスでの修業時代には「東洋人にクラシック音楽が理解できるのか」と言われたそうだが、今やその優れた理解を疑う人は皆無だ。ただし、それはやはり東洋的、更には日本的な理解ではないか。だから駄目だと言うのではない。むしろ、西洋人にはあり得ない東洋的な理解だからこそ、それは斬新であり得ると思われる。ウイスキーも然り。日本人でもスコッチ・ウイスキーの製法に習熟すれば最高のウイスキーをつくることができるが、それはやはりジャパニーズ・ウイスキーであろう。スコッチ・ウイスキーではない。スコットランドの「論理」と日本の「論理」が衝突する。それでいいのだ。同様に、日本人がフランス人以上のフランス料理を実現しても、それは否応なくジャパニーズ・フランス料理になる。何故か。それぞれの「ふるさと」が異なるからだ。それは技術の問題ではない。技術は日進月歩で変化していく。しかし、「ふるさと」は変わらない。変わるのは「ふるさと」の表現、すなわち「ふるさと」の現象、更に言えば「ふるさと」を現象させる「論理」だ。従って、日本人であるマッサンがスコッチ・ウイスキーに挑戦してジャパニーズ・ウイスキーを実現したことによって、ウイスキーの「論理」が揺れ動く。それはスコッチ・ウイスキーの伝統的な「論理」を揺るがすものでもある。おそらく、たといジャパニーズ・ウイスキーがどんなに優れていても、伝統主義者はそこにスコッチ・ウイスキーの歪曲しか見ないだろう。そのブレない姿勢は尊重したい。しかし、伝統を蔑ろにするつもりなど全くないものの、伝統に固執しているだけでは「新しきもの」は生まれないのではないか。伝統は不変、すなわち何百年経っても微動だにしないものが伝統だという考えもあるが、私は伝統も「新しきもの」によって絶えず発展していく、あるいは「新しきもの」が積み重なって伝統になっていくと考えたい。何れにせよ、伝統の一線を越えて「新しきもの」を生み出していくべきか否か、という問題がここにはある。スコッチ・ウイスキーの伝統的な「論理」、それを日本の「論理」を駆使して新たな伝統(日本の国産ウイスキー)を生み出していく。それがマッサンの選択であり、同時に「ふるさと」の要請でもある。