一線を越える理想(10) | 新・ユートピア数歩手前からの便り

一線を越える理想(10)

これまで「日本人になる」ことを中心に「民族の超越」について思耕してきたが、視点を変えてみたい。フランス文化に心酔して「フランス人になりたい」と望む日本人がいるとする。それは可能だろうか。法的にフランス国籍を得ることはできるし、フランスの文化的・社会的な「論理」に精通することでフランス人のように生活することもできる。もしかしたら、それは凡百のフランス人よりもフランス人らしい生活かもしれない。しかし、それは所詮「ように」とか「らしい」という近似値にすぎない。「フランス人」そのものに辿り着くことは不可能だ。ただし、その不可能性は単に民族の差異性に尽きるものではない。生物学的な人種の差異性もさることながら、日本人とフランス人とではそれぞれの「ふるさと」の現象は異ならねばならない。この点、未だ上手く表現できないが、「ふるさと」はあらゆる人の存在の根柢(原点)として「何処にもない場」であるものの、それが日本とかフランスという特定の場所に故郷として現象する仕方に差異が生じるのだ。言わば故郷は「ふるさと」の受肉であって、それぞれの場所で異なる国として現象する。当然、日本という現象とフランスという現象は根源的に異なる。日本という場所を理想の故郷にすることが日本人の使命だと言ってもいい。フランス人についても同様だ。では、日本人の使命とフランス人の使命は無関係(没交渉)であろうか。断じてそうではない。むしろ、両者の使命、更に言えばあらゆる国の使命は全て通底している、と私は考えている。そこには「人が人間になる」という理想が究極的な使命としてある。日本人は自らの使命を果たすことで人間になる。「本当の日本人」になることで人間になる。フランス人も然り。そして、「本当の日本人」と「本当のフランス人」は民族の一線を越えて共働し、世界全体を「祝祭の故郷」にしていく。果たして、こうした理想は荒唐無稽であろうか。確かに、それぞれの民族の「論理」にとどまる生活の方が安定しているに違いない。適度なナショナリズム(排外主義とは無縁のナショナリズム)は幸福をもたらす。その上で、諸民族の「論理」を尊重して「仲良き関係」を築いていけばいい。どうしてその一線を越えていく必要があるのか。インターナショナルな「仲良き関係」で十分ではないか。しかし、そうした「仲良き関係」を実現するためにも、ナショナリズム(民族主義)を超越して、それぞれの「ふるさと」の次元を切り拓いていかねばならない。相対的な「仲良き関係」も一つの理想ではあるが、やはり「関係の理想」はその一線を踏み越える。相対的なものの安定から絶対的なものへと敢えて危険な一歩を踏み出さざるを得ない。