一線を越える理想(8)
醜いアヒルの子が差別されるのは当然だ。自然は同一性を好む。異物は排除される。日本人は日本人のコミュニティの中で安定して生活できる。そこに外見も言葉も生活習慣も異なる外国人が入ってくれば、一時的な観光客や仕事上の滞在者以外は排除される。それが自然の対応だ。しかし、理性は自然の一線を越えて排外主義に違和感を懐く。外国人とも仲良くすべきだと思う。「日本人は日本人、外国人は外国人也。されど仲良き。」ただし、仲良きことは美しいが、それは未だ外国人との「関係の理想」にまで達していない。誤解を恐れずに言えば、それは仲良き関係という一線を越えた次元にある。ここで確認しておきたいことは、「関係の理想」は同一性を求めるものではない、ということだ。とは言え、同一者とのみ仲良くできると思うのは自然の情であり、むしろ同一性にこそ最も親密な関係が成立すると考えることもできる。その場合、日本人と親密な関係になりたい外国人は可能な限り日本の「論理」に同化しようとするに違いない。すなわち、日本人になろうとする。そのようにして日本に帰化した外国人は少なくないが、外国人にはそれぞれの祖国の「論理」がある。それを放棄して日本人になったわけではないだろう。日本は重国籍を認めていないが、法律上の国籍は二次的な問題にすぎない。以前に述べたように、民族は国籍を超えている。法的に日本国籍を得たからと言って、日本人であるとは限らない。これは逆の立場でも同じことであり、先の大戦下のアメリカにおいて日系人(二世)はアメリカ国籍でありながらアメリカ人とは認められず強制的に収容所に送られた。周知のように、今ではその措置は誤りであったと日系人に謝罪もされているが、国籍と民族の区別そのものは極めて自然だと言える。実際、移民の国アメリカには様々な民族系のアメリカ人がいるわけで、非難されるべき問題はその中で日系だけが差別された点に見出されるにすぎない。今のアメリカは移民を排除する国に成り果てているものの、アメリカ本来の「論理」は様々な民族の共存にあったと思われる。では、アメリカが理想の国だとして、アメリカ国民(国籍)という共通の地平の下での諸民族の共存が「関係の理想」なのだろうか。確かに、それは理性の限界内の理想ではある。しかし、「関係の理想」はその限界を超えようとする。「民族の超越」への一歩を踏み出そうとする。