一線を越える理想(7)
ローザ・ルクセンブルクも祖国ポーランドの独立に批判的であった。何故か。ネットの情報によれば、理由は次の二点が考えられる。
1. ローザは、ポーランドの独立はドイツ、オーストリアおよびロシアでの革命を通してのみ可能であると考えており、闘争はポーランド独立を目標とするものではなく、資本主義そのものに対するものでなければならないと主張した。
2. ポーランド独立に反対したのは、彼女が「少数民族は支配階級をもたないため反動的に機能する。少数民族は支配民族に同化するべきである。」というエンゲルスのテーゼに忠実であり、カウツキーの「民族融合論」に賛同して、レーニンらの唱える社会主義の下での民族自決権を否定したためである。
要するに、革命の目標は民族の独立に尽きるものではなく、最終的には資本主義の打倒とそれに伴う民族の超越にまで辿り着かねばならない、ということだろう。カウツキーの「民族融合論」については不勉強でよくわからないが、単純に「民族を超えた次元を切り拓く」と解するならば、極めて重要な問題が浮かび上がってくる。それは「人が人間になる」という理想と密接に関係している。言うまでもなく、「民族を超える」とは優秀な民族が混血を繰り返して超民族になるというようなおぞましい優生学的SFではない。ニーチェのÜbermensch(超人)がSFの「スーパー・マン」とは無縁であるように、「民族の超越」はあくまでも哲学の問題であるべきだ。それは水平の次元から垂直の次元への超越でもある。鄙見によれば、ザメンホフのhomaranismo(人類人主義)もヴィクトール・フランクルのMonanthropismus(一人類主義)も「水平の理想」としては限界があると言わざるを得ない。どちらもヤスパースの言うdas Umgreifende(包括者)と人が関係する「垂直の理想」として成就する。私はその方向に「民族の超越」の可能性を摸索しているが、依然として民族もしくはナショナリズムの一線を越えることには根強い抵抗があるに違いない。その点について更なる思耕を深めたい。