一線を越える理想(6) | 新・ユートピア数歩手前からの便り

一線を越える理想(6)

石母田正氏の「幸徳秋水と中国:民族と愛国心の問題について」と題する論考によれば、秋水はアジア諸国の抑圧された民衆の解放には積極的に関わったものの、それぞれの民族独立運動に対しては消極的だったそうだ。これは秋水に限られるものではなく、石母田氏はそこに日本の社会主義全体のコスモポリタン的性格を見出している。端的に言えば、民族独立運動の先には民族を超えた国際連帯の義務がなければならない、ということだろう。秋水は「国家観念の否認」なくして朝鮮民族の独立は達成できないと考えていたようだ。石母田氏が指摘するように、ここには支配国の社会主義者と被支配国の活動家との温度差が感じられる。後者にとって民族の独立は切実な問題であって、その先の問題など二次的な問題にすぎない。むしろ、民族の独立こそが至上の問題であって、国際連帯は民族の独立の上に築かれるものだと考えられている。周知のように、ここに見出されるのはコスモポリタニズムとインターナショナリズムの相剋だ。そして、問題の焦点は「ナショナリズムの超克」に絞られる。どうも秋水は民族にも愛国心にも批判的なようだが、飯塚浩二氏は「ナショナルでありながらインターナショナルでありうること」について考え、「ナショナルであることによってインターナショナルであり得るという道は、インターナショナルであることによって愛国的であり得る道と別のものではないにちがいない」とまで言っている。余談ながら、ザメンホフのhomaranismo(人類人主義)の対極にランティのsennaciismo(無民族主義)があるように、我々の前には常にナショナリズムという一線が引かれている。我々の理想はこの一線を越えて行くべきか否か。