一線を越える理想(5)
戦争の「論理」は同化の強要であることが多い。侵略戦争がその典型だが、可能な限り広い場所を自国に同化させたいという欲望だ。そうした領土的野心は既に十九世紀の遺物と化していると思っていたが、どうやら未だしぶとく生き残っているようだ。しかし、それが時代錯誤であることは間違いない。所詮、感情の「論理」にすぎないからだ。独裁者がいくら「侵略ではない。正義だ!」と強く主張しても、その詭弁は必ず暴かれる。また、剥き出しの欲望を克服できないようでは人類に未来はない。もとより感情的な戦争の「論理」の克服を無視するわけではないが、より重要な問題は理性それ自体が要請する戦争の「論理」にある。これは容易に納得できない問題であろう。人に他を侵略する欲望があるのは理解できる。当然、侵略された人はそれに抵抗する。同化の強要に対する異化の抵抗。これは他のイキモノにも見られる現象であり、言わば本能に基づく感情レヴェルの抗争にすぎない。強者はナワバリを広げようとし、弱者はそれに抵抗するも、結局は屈服せざるを得ない。そうして「棲み分け」という安定に落ち着く。人の世界も基本的に同様ではないか。大国と小国の「棲み分け」が曲がりなりにも均衡を保っている。尤も、その均衡は常に崩れる危険性にさらされており、今も世界の至る所で崩れ始めている。それを理性の力で必死に何とか維持しようとしているのが現実だ。もはや大国の強大な欲望に感情的な領土的野心はないとしても、理性による同化の強要は依然として存在する。例えば、ベネズエラで起きたこと、イランで起きていることはアメリカの「正義」による同化の強要ではないか。とは言え、腐敗した現政権に対する「正義」の鉄槌を反体制派の人々は歓迎しているようだ。「トランプ万歳!」などと叫んでいる。ベネズエラにせよ、イランにせよ、市民の大半にとってもアメリカの「正義」による同化は強要ではないのかもしれない。しかし、たとい強要ではなくとも、大国の「正義」による同化を許容していいのだろうか。そもそもそれは本当に正義なのか。何が正義かを判断するのも大国の理性であるなら、その理性的な「正義」もまた大審問官の論理に他ならない。大国にも小国にも、それぞれ建国の「論理」がある。理想的な「棲み分け」が大国の「論理」だけで決められていい道理はない。さりとて他国の「論理」の腐敗に無関心であっていい道理もない。内政干渉という非難を承知の上で、理性は理想に向かって一線を踏み越える。それはアメリカの「正義」による同化の一歩に尽きるものではない。むしろ、更に戦慄すべき問題を一線を越える理想は胚胎している。