故郷の超克としての「ふるさと」(7)
新しい「ふるさと」は明らかに矛盾を孕んでいる。「冷たい炎」のような撞着語法(oxymoron)だ。通常、「ふるさと」は始源にあるものであり、我々がそこから生まれ育った最も古い根源的な場所であろう。ゾーエーの次元における「ふるさと」が正にそのような場所だと考えられる。始めも終わりもないゾーエーの大いなる円環。そこに同化することで人の生命は充足する。具体的には自然に即した生活であり、そうしたゾーエーに根差した「ふるさと」はアルカディアの理想として理解できる。ところが、その「ふるさと」は今や失われた楽園にすぎない。どうして始源の楽園は失われたのか。神話としては知恵の木の実を食したことが原因とされているが、ヘーゲルは大略「愚かなケダモノのみが楽園にとどまれる」と述べている。確かにゾーエーの「ふるさと」では食うに困らず、生活に齷齪することもないだろう。しかし、人はパンのみにて生くるにあらず。これは聖書の誤解であろうが、人は生命(ゾーエー)の充足以上の何かを求めざるを得ない。それは生(ビオス)の充実であり、その欲望がアルカディアの円環の理想を超えるパラダイスの直線の理想への道を切り拓く。ただし、パラダイスを求める欲望は言わば神が定めたイキモノの生命を超えんとする「呪われた部分」であり、人は絶望の淵に立たされる運命にある。それ故、放蕩息子のように、再び「ふるさと」に帰還しようとする。聖書では帰還した放蕩息子は祝福されるが、本当にそうだろうか。失われた楽園は本当に回復されるだろうか。私は疑念を禁じ得ない。アルカディアの反復が望まれるとしても、それは後向きの運動ではあり得ない。あくまでも前向きの運動であるべきだ。そして、前向きに反復されたアルカディアはもはや元のアルカディアではあり得ない。ここに新しい「ふるさと」が求められる所以がある。