故郷の超克としての「ふるさと」(6) | 新・ユートピア数歩手前からの便り

故郷の超克としての「ふるさと」(6)

ハウスレスと区別されるホームレスはこの世界に「居場所がない」ことと理解される。学校に居場所がない。職場に居場所がない。家庭に居場所がない。そこで「サードプレイス」という場所が注目されているが、それは根源的な問題の解決になるだろうか。どんな場所であれ、自分が心から寛げる居場所があるのは結構なことだ。悪い道理がない。しかし、居場所探しが自分探しでもあることを考えると、何だか腑に落ちない感じもする。居場所がなかった私が居場所を見つける。それは「本当の自分」を見つけたことになるのか。もしそうなら、場所が「本当の自分」を規定することになる。それはおかしいのではないか。リラックスできる場所の必要性は理解できる。喫茶店とか居酒屋とか、広い意味での娯楽の場所は生活に不可欠だ。しかし、そこに居る私が「本当の自分」なのか。野暮を承知で言えば、娯楽の場所は私が「本当の自分」に至る途上の休息の場所にすぎない――私はそう考えている。おそらく、これは眠っている私と活動している私、あるいは無意識の私と意識している私のどちらが「本当の自分」か、という問題に繋がってくるだろう。意識的に活動している私など「本当の自分」の氷山の一角だと考えることもできる。実際、無数の細菌が私の意識とは関係なく働いてイノチを維持しているゾーエーの次元に比べれば、私が主体的に生きる意味を求めているビオスの次元など実にちっぽけなものだ。その意味では、ゾーエーの次元こそ「ふるさと」なのであって、そこで何も考えずにボーッとしている私が「本当の自分」ということになる。しかし私は敢えてビオスの次元に執著したい。あらゆるイキモノのイノチの根源であるゾーエーの大いなる円環。それが「ふるさと」であるのは自明なれど、ビオスの次元にも「ふるさと」はあるべきだと私は思う。ゾーエーとビオスは無関係ではあり得ないが、さりとて次元を異にする。前者の「ふるさと」が生命尊重に徹するとすれば、後者の「ふるさと」は生命尊重以上の価値を生み出していく。どちらも居場所であることに変わりはないものの、それぞれの意味は質的に異なっている。或る場所に居ることの同化と異化。ゾーエーの居場所は人をそこに同化させる。その同化によって人々は心からリラックスできる。正にその場所をビオスは異化する。その異化によって全く新しい「ふるさと」が求められる。果たして、これは殆ど誰も必要としない、余計な「ふるさと」であろうか。快適な居場所としての「ふるさと」さえあれば十分なのであろうか。